2月21日
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老舗かんだやぶそば、火事で半焼・・・
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いやぁ、驚きました。
週一回・宿直で会社に泊まった明くる日、
時折、寝不足の体を、胃袋を癒してくれる憩いのお店、
「かんだやぶそば」が火事で半分燃えてしまいました。
夜7時20分に火が出たにもかかわらず、
けが人が一人も出なかったことが、不幸中の幸いではありました。
創業130年、震災後建造された、
築90年の歴史的建物が、半焼してしまったのは残念ですねえ。
昔の神田連雀町、あんこう鍋のいせ源、
粟ぜんざいの竹むらと並んで、古き江戸の佇まい。
ビルの立ち並ぶ大都会の一角に、ぽかりと残る江戸情緒。
かんだやぶそばには、昭和48年、中央大学に進学し、
落語研究会に入部してすぐ、
4年生の先輩に連れて行ってもらったのが初めてです。
広島生まれ、広島育ちで、麺類はうどんだっただけに、
初めて食べた江戸前の「せいろそば」は、すぐには馴染めない味の濃さ。
まず、真っ黒なおつゆが蕎麦猪口になみなみと出てきて、
「先輩!申し訳ありません。私、このお蕎麦は無理です。ごめんなさい」と、
勿体無くも残してしまったのです。
4年間毎日、当時中央大学があった、
神田駿河台のキャンパスでうろうろしてましたから、
連雀町は目と鼻の先なのに、学生時代の麺類は南門近くの、
きしめんの「田毎」ばかりでした。
当時、寄席では、耳で、目で、三遊亭圓生、林家正蔵、
金原亭馬生、古今亭志ん朝の、心地のよい江戸前の高座に接しながら、
江戸前の味には、なかなか馴染めなかったのです。
でも、その後、大好きな志ん朝師匠のご贔屓のお蕎麦屋さんが、
「かんだやぶそば」と聞いて、もう一度行ってみようと思い立ち、
10年ぶりに暖簾をくぐりました。
「時そば」「そば清」のそば好きの江戸っ子を気取って、
蕎麦猪口のつゆをちょっぴり、蕎麦の先につけて、
おもいっきり手繰った時のさっぱりした味わいに、
これまでの偏見はきれいに吹き飛んで、お蕎麦のとりこに・・・。
しまいには「そば湯」で、あれだけ抵抗のあった、
黒くて辛いおつゆを飲み干していたんですから、
いかに志ん朝師匠に、憧れていたかお判りになるでしょう。
後に「味な歳時記 池波正太郎 その世界」という番組を
担当した時に、「かんだやぶそば」の女将さんに
インタビューする機会に恵まれました。
大好きな志ん朝師匠が生前、お店に来て、毎回女将と話し込んで、
そのあとせいろを、たったったとたぐって、
帰って行ったということを伺うこともできました。
それからは志ん朝師匠を気取って、よ〜くお邪魔して、
鴨焼きと、わさびいもで、お銚子一本。
そして、せいろをタッタッタとず・ず・ず・ずーーーーとたぐって、
3〜40分で、お勘定をして、楊枝をくわえ店を出る。
一人で粋を気取って、気分よくすごす、至福の時だったんですよね。
幸い、半年後にはお店を復興させると、女将もおっしゃっているようですね。
古い店のたたずまいは思い出に残し、あの伝統の江戸の味は、
一日も早く復活させてほしいですね。
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2月14日
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昭和は遠く・・・悼む、鈴木文弥さん
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「柴田、打った!レフトフライ、たかぁく上がりました・・・
レフト水谷、ゆっくりと前に出てくる、かまえて、とったとった、
試合終了、カープ優勝、広島カープ初優勝であります!
山本浩二万歳しながら、ベンチに走ります。
さあ、これから、古葉監督の胴上げであります。
‘広島カープに過去はありません。現在あるのみであります!!!!!’」
昭和50年、広島カープ初優勝を後楽園球場で決めた時の
NHKラジオから流れていた、鈴木文弥アナウンサーの実況中継です。
当時、神田駿河台にあった、中央大学3年生だった私は、
講義を抜け出して、総武線でひと駅の後楽園球場レフトスタンドで、
トランジスタラジオのイヤホンを耳に、
この感動のシーンを目の当たりにしていました。
目の当たりにした感動の場面を、歯切れの良い、
心地の良い口調で描写された、鈴木文弥アナウンサーの中継に、
心底憧れ、魅せられてしまいました。
当時は、今と同じような、就職難にあえいでいたころで、
もう一つのあこがれ、小さん師匠のような噺家になろうと、
半分決めていたころでした。
しかし、いっぺんに無理を承知で、ラジオの実況アナウンサーに、
目標を変えた瞬間でした。
幸い、ニッポン放送のアナウンサーに就職が決まり、
新米のスポーツアナとして取材の現場で、
憧れの鈴木文弥アナウンサーにお会いすることができた時は、
足が震えましたねぇ・・・。
それからは、年賀状を毎年やり取りさせていただき
時には、私のまずい放送を聞いて下さり、
感想を言ってくださることもありました。
後楽園球場の報道サロンで
「君も、コールコーヒー(西の地方でよく使うアイスコーヒーのこと)で
いいかい・・・」
「実況アナウンサーは、目にし耳にした球場での取材したネタを、
うまく咀嚼して放送に使いなさい。
現場の球場、隅々まで歩き回りなさい。足で稼ぐんだよ。」と
教わったことが、今は懐かしい思い出です。
このところご無沙汰が続き、今年は年賀状が帰ってこなかったので、
84歳というご高齢もあって心配していたのですが・・・。
東京オリンピック女子バレーボール・決勝戦。
昭和44年、夏の高校野球松商ー三沢戦、
延長18回引き分け再試合のラジオ実況・・・。
まさに昭和のスポーツアナそのものの方でした。
私のスポーツアナウンサーへの、きっかけを作って下さった、
鈴木文弥アナウンサーのその時の実況を、
当時出回り始めたラジカセで、後輩に部室で録ってもらった
カセットテープが、今も手元に残っています。
昭和は遠くなりにけり・・・。
1月20日急性肺炎、84歳でした。
ご冥福をお祈りいたします。
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2月 6日
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南国の味・たんかん
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1日から、我がニッポン放送でも各ワイド番組で、
プロ野球キャンプレポートが、さかんに入るようになりましたね。
スポーツ部アナウンサーも沖縄・宮崎と南国に散って、
球音間近を思わせますね。
私もキャンプ取材に行ってたころが、無性に懐かしくなります。
この時期、我が家では、毎年沖縄は牧志の公設市場内の果物屋さんから、
「たんかん」を送ってもらっています。
今年もあま〜い南国の味、そしてさわやかな柑橘系の香りが、
家中に広がって、家の中はさながら沖縄。
果物屋さんとのお付き合いも、もう27年になります。
そもそも、ポンカンとネーブルオレンジを掛け合わせて生産された、
「たんかん」という果物を初めて口にしたのは、
1979年、ロッテオリオンズの鹿児島鴨池キャンプに行った時。
当時現役の小俣進さん(現役引退後、長嶋終身名誉監督の広報担当でした)と、
取材で懇意になり、たまたまキャンプの休日に、
小俣さんを当時後援していた、
谷山の青果市場の果物屋さんへ遊びに行って、
初めて口にしたのです。
いや、その時はも〜うそのさわやかな甘さに
一発で魅せられました。
ココで出逢ったのは、屋久島産の「たんかん」だったのですが、
その後、1987年に当時の横浜大洋ホエールズが、
沖縄・宜野湾キャンプを開始して、沖縄に取材に行くようになりました。
この時、練習中の選手ロッカーなんかに無造作に置かれているのを見たのが
「たんかん」との再会でした。
この「たんかん」は、沖縄北部の畑で生産されたもので、
夏の日差しが強すぎて、皮があばたになっているのが多いのですが、
甘さは鹿児島よりも強いのが特徴。
那覇市内の牧志の公設市場で、とても安く買えることを、
宜野湾球場の関係者の方が教えてくださり、
毎年沖縄を訪れるたびに、友人や親戚に送っていたんですよ。
今年も甘い「たんかん」が沖縄から届きました。
皮をむいて、ひと口頬張ると、
「う〜む、あれからもう30年近く、なが〜い歳月が過ぎ去ったのだなぁ」と、
なんとなくおセンチになる、今日この頃なのであります。
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1月24日
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正楽師匠の年賀状
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「いけねえー、出してなかった!」
「おかしいなあ・・出したはずなのに…音沙汰なしか…・」
日本の古き良き風習、年賀状のやり取り。
今年も月曜日のお年玉付き年賀はがき当選番号発表で、
ひと段落付きましたねえ。
改めて300通以上のはがきに目を通してみました。
今年もお年玉切手シートが、わずか4シート的中。
私の籤運もだいたいまあ、こんなもんですかねえ・・・。
今年60・・・還暦を迎える同級生の、
それぞれの感傷がつづられているのが
印象に残りましたねえ。
ここ10年来、毎年楽しみにしているのが、
寄席演芸「紙切り」の大家、林家正楽師匠からの年賀状。
今年の干支の蛇にちなんで「蛇娘」を
綺麗に切り抜いて貼ってあるはがきの余白には、
前の年、高座で注文の多い順が書いてあります。
去年は・・・
第一位・スカイツリー:179
第二位・竜:98
第三位・藤娘:39
第四位・パンダ:35
同四位・宝船:35
第六位・お花見:33
第七位・お月見:32
第八位・ロンドンオリンピック:29
第九位・ひな祭り:28
第十位・梅に鶯:27
第十一位・ミッキーマウス:26 だそうです。
毎年同じタッチが、またうれしくて、
ふらふらまた、師匠に会いたくなって、
寄席に足を運んじゃうんですよ。
今年も我が家の年賀状大賞は、
林家正楽師匠に決定いたしました。
師匠、今年もご活躍を!
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1月 8日
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仕立ておろし
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皆様、あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年の新年は、これまでになく、
ゆっくりとのんびりと過ごさせていただきました。
去年、このブログでも能書きをとうとうと書かせていただいた、
「きもの」和装切り替え企画・第一弾が、
一昨年、京お召しの羽織と長着あつらえ。
それからこつこつ、お小遣いをため込み、
ビートブラック・ショウリュウムーンの
咥えてきてくれた高配当馬券のおかげで、
去年秋、第二弾を懇意にしている
京都の呉服屋さんに新たに着物を注文。
あつらえた一式が、年末に届き、
今日、仕付け糸をとりました。
前々から「これだ!」という粋な着物で
高座に上がっている噺家さんの写真・グラビアを、
撮っておいたものから、柳家三三さんのものがえらく気に入り、
番頭さんにお願いしていたものなのです。
ピックアップして持ってきてくれた反物から、
強烈にひきつけられた紬の反物を選んだのですが、
値札なんぞ、目に入らない心地の良い肌触りに即決め。
薄茶の長着に、墨黒に霰模様の紬の羽織をあつらえました。
以前より、鶴光師匠から
「噺家の高座着は紬は避けなさい」と言われていたのですが、
東京の噺家さんは、昔から紬のきもので高座に上がっていたそうで、
圓生師匠は特に品物の良い紬を好んで選ばれていたそう・・・。
あまりの手触りの良さに、
師匠のアドバイスを無視してしまいました。
師匠は「つむぎはな、船場の旦那や若旦那の
くつろぎ着・遊び着に用いられるもんやから、
芸事をする噺家にはふさわしくない着物やで。」
とおっしゃってました。
しかし、昔から高価なものなのに、
長〜い間、着物好きに好まれている紬の素晴らしさに、
目もくらんでしまいました。
愚妻も「還暦のお祝いだかんね!大事に来てね」と
快諾してくれました。
明日あたり、池之端の「道明」で羽織の紐、
浅草新仲見世の「帯源」で博多帯を選ぶ予定・・・。
なんだか女性の衣装選びの気持ちが理解できそうな、
そんな心持なんですよ。
ただ一つのお道楽、お許しください。
羽織は円太郎師匠のアドバイスで、
縫いつけの一つ紋と、凝りに凝った一式。
お祝いのパーティー、婚礼の司会にも来ていこうと思っています。
これだと洋装と違って、でっぷりとしたお腹が
見事に目立たないのですよ。
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