10月17日
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なっ、なんだ?このチーム、ひげの軍団!!!
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ただいま、日米野球界はポストシーズン真っ盛り。
期待したパイレーツは、善戦むなしく、
地区シリーズで、惜しくも敗退してしまいましたが、
上原・田沢両日本人選手が活躍するボストンレッドソックスは、
地区最下位に沈んだ昨シーズンの悪夢からわずか一年で、
みごとに体制を立て直して97勝65敗、
6年ぶり地区優勝を果たしました。
さて、ネットやテレビで、レッドソックスのゲームをチェックしている皆さん、
レッドソックスのプレイヤーの顔つきを見て、びっくりしているのでは???
以前流行った、キャプテンサンタのトレードマークが飛び出したような
鼻から顎まで、まるで鳥の巣のようなふさふさの髭をはやした選手が
グランドを駆け回っているではありませんか!
われらが上原・田沢両選手は、今年まったく生やしていませんが、
マイク・ナポリ、ジョニー・ゴームズ、マイク・カープ、
ダスティン・ペドロイア、ジャロッド・サルタラマッキア・・・。
遠目では区別がつかないほど、それはユーモラスな光景ですよ。
アメリカでも日本の巨人軍と同じように、ヤンキースはひげは禁止。
(もちろん、日本がお手本にしているのですけど・・・)、
それと両極端のレッドソックスらしい個性のかたまりを表すような現象ですね。
どうやら去年、ダルビッシュとテキサスでバッテリーを組んだ
マイク・ナポリ選手が、今年、FAでレッドソックス入りし、
キャッチャーではなくファーストで打力を生かすべく、
新天地で気分一新!
春のキャンプから、ひげを生やし始めたのが
最初ではないかと言われています。
学生時代の英語の授業を思い出しますね。
「髭」・・・マスターシュ(MASTACHE)のほうじゃなくて、
サンタさんみたいなのは、ビヤード(BEARD)のほうですよね。
2004年、ベイブルースの呪いを解いたワールドシリーズ制覇の時は、
勝手し放題の個性派集団を称して、THE IDIOTSといわれましたが、
今回は、この髭の軍団を、ボストニアンは何と呼ぶのでしょうかね?
ちなみに、ベンチで采配をふるうファレル監督の傍に立って支えている、
ベンチコーチは、元ヤクルトスワローズに一年だけ(2000年、若松監督の時)に
助っ人で来日したトレイ・ロブロ(Torey Lovullo)コーチです。
日本では活躍できませんでしたが、アメリカに帰ってから、
マイナーリーグの指導者を振り出しに、去年はブルージェイズのベースコーチ。
ついに今年から、就任のファレル新監督の懐刀として活躍しています。
こちらも画面に登場しますから、ヤクルトファンの方もご注目!、
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10月 3日
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ピッツバーグ・パイレーツ、ポストシーズン進出
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先日、カープが16年ぶりにAクラスに入り、
初のCS進出で、広島は大騒ぎになっています。
一方、海の向こう、メジャーリーグでは、
1887年創設の伝統あるチームながら、
1993年からまるまる20年負け越していた、
ピッツバーグ・パイレーツが、日本時間の2日・水曜日、
シンシナティ・レッズとのワイルドカード、
ポストシーズン進出決定戦に勝利。
ついに悲願のポストシーズン・ナリーグ地区シリーズ進出を決めました。
1992年以来、21年ぶりのシーズン勝ち越し。
21年ぶりのプレイオフ進出に、ペンシルバニア州の地方都市、
ピッツバーグは、町中、歓喜に満ち溢れています。
学生時代、地理で学んだ「ピッツバーグ」は、
アメリカを代表する鉄鋼のまちで、
ひどい公害で汚染された町という認識でした。
でも、ドジャース・野茂登板ゲーム中継で、
アメリカに出張した1995年、
初めて降り立ったピッツバーグの街は、
緑鮮やかな、川の流れも清らかに、
澄み切った青空が広がっている、
それは美しいまるで、箱庭みたいな可愛らしい街でした。
ピッツバーグは鉄鋼の町から、
ハイテク・保健・教育・金融・サービス業を中心とした、
美しい街に変わっていたのです。
2002年、石井一久投手・ドジャースデビューの年まで、
毎年のように訪れた、東部の地方都市ピッツバーグは、
のんびりとした、疲れた心身を癒してくれるのどかな街で、
大好きな街として、私の脳裏に刻み込まれています。
当時、弱くて弱くて、ガラガラだった、
「スリーリバーススタジアム」。
2001年に新設された、美しい「PNCパーク」さえも、
閑古鳥がないていた、弱小球団が苦節20年、
プレイオフに進出したのですから、感慨もひとしおですよ。
目の前のアレゲニー川にかかる、
クリーム色のロベルトクレメンテ橋に西日が映えて
センター後方のダウンタウンの高層ビルが、
シルエットとなる頃、プレイボール・・・。
あの美しい「PNCパーク」が満員の観衆で埋まり、
黄色と黒がチームカラーのバックス
(海賊はパイレーツのほかにバッカニヤーという呼び方があり、
地元のファンは、バックスとよんでいる)の面々が、
緑鮮やかな美しい芝の上を躍動する!!!
あー!今からでも飛んでいきたいくらいの気持ちなんですよ。
それから、昔の鉄道の駅を改装したステーションモールのなかにある、
日本食レストランの「菊」も思い出の場所です。
そういえば、カープの野村・緒方・前田の主力三選手が揃ってケガをして、
ピッツバーグ大学の附属病院でリハビリをしていた時にも、
彼らが、遠く離れたピッツバーグで
日本の味を味わいに毎日のようにやってきたというお店。
生え抜きの若手選手が立派に育って、
チャンピオンフラッグを争うプレイオフに出場・・・。
ゲーム観戦の後、この「菊」で日本酒で一杯・・・たまらないでしょうねえ。
パイレーツは、日本時間の4日からカージナルスと対戦します。
センターを守るアンドルー・マカッチェン選手、
「背番号22」にご注目!!!
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9月25日
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還暦を迎えて
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みなさんにご報告が遅れましたが、
私・栗村智、先日8月23日に満60歳を迎え、
8月31日付で定年を迎えました。
まっ、このまま引き続き嘱託アナウンサーとして、
ニッポン放送に残ることになりました。
一時は体調不安で、スポーツ現場から離れていたのですが、
あのスポーツ現場の興奮・迫力・緊張感が忘れられず、
野球現場・競馬の現場に復帰したのが去年。
大分、感覚も戻ってきたようなので(えっ、まだ戻ってない・・・?)
もうしばらく頑張ることにしました。
私のキャリアの中で思い出深い、
ロサンゼルス・ドジャースタジアムに、ポストシーズンがやってきます。
4年ぶり、ナ・リーグ西地区優勝!!!
あわせて、尊敬してやまない、ビン・スカーリーさんが、
来年もVOICE OF THE DODGERSとして、
ドジャースのゲーム中継を、来年も担当することを発表しているのです。
ブルックリン時代のジャッキー・ロビンソンのデビュー戦も中継した、
今年でアナウンサー64年目、この11月で86歳になられる長老が、
今だに元気にマイクの前に座るんですからねえ・・・。
おおいに刺激になりました。
今年前半、体調を崩されて心配しましたが、見事に復活されました。
艶のあるきれいな声、心地の良いリズムで、実況が耳に入ってくると、
ロサンゼルスの真っ青な空が、そしてパームツリーが、
鮮やかに脳裏によみがえるのです。
スカーリーさんの足元にも及びませんが、私も変わらぬ野球・・・、
そうそう競馬にも、情熱を持ち続けようと思います。
改めて、よろしくお願いいたします。
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9月12日
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バレンティン第55号!!
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いやいや、ついに日本記録に並びましたね!
このホームラン協奏曲、日米球界久しぶりの快挙です。
残り22試合もあるし(残念ながら)ヤクルトの順位から言っても、
相手チームのピッチャーは、目いっぱい勝負してくるでしょうから、
新記録は間違いなし。
あとは、どこまで記録を伸ばすか?
バレンティンは、2007年〜2009年のシーズン半分くらいまで
メジャーのチームに所属し、シアトルマリナーズでは、
イチロー、巨人・ロペス、ホークスのラヘアとチームメイトだったんですよ。
でもあのころは、今のような輝きはなかったなあ・・・。
変化球にからっきしで、三振の山を築いたプレイヤーでしたよ。
3年前、レッズの3Aにいる時に、ヤクルト球団のマイケル奥村さんに、
日本へスカウトされたんですよね。
「えっ、あのバレンティンがヤクルトに来るの〜?」
ほんと、ビックリしたものですよ。
だって、三振して、首をうなだれて、
ベンチに帰ってくるあの姿を衛星放送で見ていたものですから・・・。
際どいところで勝負してくる日本の野球には、
合わないんじゃないかと思っていたんです。
ヒスパニックらしい、陽気でおしゃべりのバレンティンに、
正直なところ、こんなに探究心があるとは思いませんでした・・・。
WBCで、東京ドームの固い人工芝でのゲームに
左太ももを痛めてしまって、10試合ちょっと開幕を出遅れているのに
これですから、本当に本当にタイヘンな記録なんです!!
彼を日本に連れてきたマイケル奥村さんは、
1995年、野茂がメジャーデビューした時の通訳を務めていた方です。
日本の野球と、メジャーリーグの野球を目の当たりにしている経験が、
モノをいったのでしょうねぇ。
もちろん、バレンティン自身の努力があってのことですが・・・。
ちなみに、伊勢孝夫ヒッティングコーディネーターが
バレンティンに「お前、もっともっと練習して頑張ったら、
故郷(クニ)にプール付きの大邸宅をつくれるぞ!」って云ったら、
バレンティン曰く「イイよ、俺ん家の周りは、ぜ〜んぶ海だもん」だって。
南米・ベネズエラの沖に浮かぶオランダ領、
アンティル諸島キュラサオ出身の怪力男に、
最後まで眼がはなせません!
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8月29日
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土橋さんの思い出
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火曜日、神宮球場は半旗を揚げ、スワローズナインは、
ユニフォームの左袖に黒いリボンを付けてプレイしました。
元・ヤクルト監督、江戸っ子エース・土橋正幸さんが、
24日、筋委縮性側索硬化症という難病でお亡くなりになりました。
歯切れの良い野球解説が、とても心地よく、
スポーツアナウンサー駆け出しのころから、
1991年、古巣ニッポンハムの監督になられるまで12年間、
(84〜86年のヤクルト監督時代をのぞく)
解説者とアナウンサーで、放送席に座らせていただきました。
今、即座に思い出すのは、あの「10.19」、
1988年の川崎球場「ロッテ×近鉄」ダブルヘッダー第一試合。
近鉄の優勝が懸かったゲーム、第二試合担当の後輩・小野アナウンサーと
これまでそんな重要なゲームの実況の経験のない心細さで、
二人ともガッチガチになってたら、ドスの利いた声で一喝!
「せっかくのチャンスじゃないか!チビってないで思いっきりしゃべれ!
命までとらりゃーしねえよ!!」
この発破に、二人とも肝が据わって、
おかげで、思い出に残る放送が出来たんですよ。
土橋さんには、本当にお世話になりました。
日本全国、一緒に出張しました。
今のように新幹線が、網の目のように発達しているのと違って、
仙台宮城球場には、在来線の特急「ひばり」で移動。
道中、また試合後の食事中、少年時代、浅草の話、
東映時代の話をして下さり、それはそれは、話の展開も面白く、
今でも、そのときの口調が思い出されます。
そういえば、話に夢中になっているうちに、
特急「ひばり」号の食堂車のビールを、
全部飲みきったこともありました。
なにしろ、相撲が大好きで、当時の春日野理事長(元横綱栃錦)と
お付き合いがあり、千賀の浦親方(元大関栃光)、
そして栃東さんとは、親子2代通じて懇意にしていらっしゃいました。
お酒をこよなく愛し、出張地の放送本番のあとの
「反省会」と称した食事会は、楽しかったですよ。
佳境に差し掛かると、私たちを露払いと太刀持ちにして、
雲竜型と不知火型をそれぞれ演じ分けながら、
横綱土俵入りを披露して下さいました。
「おれはね、野球の世界に入らなかったら、
まわしを締めて、相撲の世界に入っていたよ!
生まれ変わったら絶対、相撲取りだね!」とおっしゃってました。
しばらくお会いしていなかったので、どうしていらっしゃるか、
電話でもと思っていた矢先の訃報でした。
3年前、土曜早朝の番組「栗村智 あなたと朝イチバン」で、
「オレが土橋だ!」というコーナーを設けて、
土橋さんに毎週出ていただいたのも、楽しい思い出の一つですね。
せっかちで情けに熱く、まさに「江戸っ子」そのものだった土橋さん。
たくさんの面白いお話ありがとうございました。
しっかりと憶えています。
きっと今ごろ、蓮のうてなで、
ポークカツレツにウスターソースをジャブジャブかけて、
ビールをぐいぐいやってるんじゃないかなあ・・・。
えっ?「お前も早く来い?」
もう少し土橋さん、待ってくださいよ〜。
私、土橋さんが逝かれる一日前に、定年を迎えたばかりなんですよ。
もうちょっとこの商売、やるつもりなんです。
直接お会いして、まずは定年をむかえて、
これまでのお礼とご挨拶をと思っていたのに、
最期まで、せっかちなんだから・・・。
しばらくは老骨にムチ打ってしゃべる、私を見守っていて下さい。
心から、ご冥福をお祈りいたします。
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