7月 4日
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パンチョの想い出
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早いもので、パンチョさんが亡くなって、今日でちょうど6年。
14日には、パンチョさんゆかりの銀座のビヤホールで七回忌が行われます。
広島のカトリックの高校で、神父様に教えられて、
岩国のFEN(極東放送・在日米軍用ラジオ)で、
大リーグ中継をよく聞いていましたと、
川崎球場のグランドでご挨拶したのが縁で、
随分可愛がってもらいました。
銀座のパリーグ事務所に広報部長のパンチョさんを訪ねて、
メジャー関係の資料を山ほど頂いて帰ったものでした。
六本木のトニーローマ、浅草の今半で、よくご馳走になりました。
なんといっても思い出は、1995年5月3日、
サンフランシスコ・キャンドルスティックパークでの、
野茂英雄メジャーデビュー中継を皮切りに、
2001年まで、アメリカでお供して、隅々駆け回りました。
68歳で亡くなるまで好奇心の塊だった
パンチョさんの印象に残った少年時代のエピソード…。
落語好きの私には、今でも思い出されます。
あれはセントルイスへ乗り継ぎで立ち寄った、シカゴ空港での待合室…。
3時間ぐらい空港で過ごさなければならず、
ぼんやり椅子に腰掛けて志ん朝師匠のCDを聞いていた時のことです。
「おれも学生の時、落語が好きでなぁ。市川の鈴本で8代目の文楽さんに、
話のサゲがわからなくて、高座のそばまで行って教えてもらおうと、
声をかけたんだよ。文楽さんがやった噺は“しびん”。
サゲの“しょんべんはできないよ、しびんは、むこうにある…”。
中学生だった俺は、何のことか、サッパリわからなかったからなぁ…。
師匠の答え?
“それはね、坊っちゃんがもう少し大きくおなりになったら、
お解かりになりますよ。道具屋さんの商売仲間の間で使う符丁で、
買わずにかえるのをしょんべんと申しますんですよ”
という黒門町の答えだった。」といってました。
もう既に「大名人」といわれていた桂文楽に、
しかも、満員の寄席の高座で、いきなりサゲの意味がわからないと
直接声をかけて質問した伊東少年、栴檀は双葉より芳し。
これくらいの積極性がなくては、
当時、誰も足を踏み入れなかったアメリカ・大リーグのグラウンドへ、
フロントへ、あそこまで精通することは出来なかったでしょう。
生前、アメリカの球場で立ち往生した時は、
「I`m pancyo's crew」と一言言えば、
その球団の広報担当の、しかも幹部がすっ飛んできてくれて、
問題即解決でした。
まさに「パンチョ」の一言は、黄門様の印籠だったのですよ。
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6月28日
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「とうかさん」と浴衣
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プロ野球交流戦も終わり、
今日から、事実上ペナントレース後半戦のスタート。
ジャイアンツは、今年で最後の広島市民球場で、
広島との3連戦で折り返しのスタートですね。
まだまだ、蒸し暑い梅雨が続きますが、
そうそう、日本で一番早い浴衣祭りが行われるのが、
我が故郷・広島だってご存知でしたか?
今年は、うっかりして忘れてました。
いつも6月第一金曜日から3日間、市内三川町、円隆寺境内の
稲荷大明神(とうかだいみょうじん)のお祭り、「とうかさん」。
このお祭りと同時に広島では、
みんなが夕涼みに、浴衣を着るようになるという、
広島に夏の到来を告げる風物詩なんですよ。
当日は中央通りに1000軒以上の露店が出て、
今年も沢山の人出でにぎわったそうです。
この「とうかさん」、縁結びのご利益があることで有名で、
高校時代、浪人生時代、イケメンの友人たちが、
かわいらしい浴衣で、艶やかに装った彼女と手をつないで、
誇らしげに、カラコロ下駄を鳴らして歩いていくのを、
指をくわえて、眺めていたものですよ。
いやぁ、ほんとに羨ましかったなぁ…。
その頃から、落語家に憧れてたものですから、浴衣は着ていました。
兵児帯で、胸や裾がはだけて歩く友人に彼女がいて、
博多の角帯をキリリと締めて、粋な姿で歩く私に目もくれないとは、
虚しい想い出ばかりですが、
やはり時々、休みの日などは浴衣で過ごしたり、
近場へ出かけたいものですね。
今や、浴衣の帯のおさまりのいいポッコリお腹…。
学生時代、夏になると作っていた浴衣を、
今でも着ているのですが、今年は新調しようかと思っています。
「宝塚記念」で馬券当てて…!!!
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6月20日
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夜のひとりごと
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いやぁ、本当に物騒な世の中になりましたね。
今、大学生の息子が一人暮らしをすべく、部屋探しをしています。
ワンルーム、風呂・トイレ付、キッチン…。
ずいぶん贅沢な暮らしをするんだなぁと、本人に嫌味を言うと、
「いや、昔のような下宿屋や間借りのアパートが殆どなくなった」のだとか…。
そういえば、この間の江東区・ワンルームマンションバラバラ殺人事件は、
オートロック付の部屋でしたよね。
昔、私が若かりし頃のような青葉荘・大関荘・月光荘なんていう
4畳半一間・流しだけ、トイレ共同、風呂なしなんてアパート、
もう、なくなったんですねぇ。
カギかけなくても何ともないし、
風邪や下痢に苦しむと、パブロンや正露丸をもらったり、
和気藹々のアパートで、学生時代を過ごしただけに…。
確かにプライバシーなんてものは存在しませんでしたが、
楽しかったけどなぁ。
あの頃、同じ屋根の下で、今日のような凄惨な事件は起きなかったですよね。
隣の人が何してるのか、誰が住んでるのかも判らないなんて…。
当時、落語研究会の発表会、追い込み練習の時は、
よく両サイドと階下の住人に、文句言われたなぁ。
あの安普請で「えぇ、一席申し上げます…。
なんだい与太郎、呼んだら早く来ねえといけねえじゃないか!…」てな調子で
毎夜、ぶつぶつやったんですから、ウルさかったでしょうねぇ。
隣の宮下さんときたら、
「栗村君、何か悩んでるの?!独り言が毎晩続くと、気になって寝られないよぉ」
「えぇ〜!!!落語練習してるのにぃ、独り言とは…」
やっぱり、プロの噺家には向いてなかったんですかね…。
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6月13日
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理不尽な死
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1995年から10年ほど、
毎年3ヶ月、アメリカ出張していた経験から、
毎日のように、国内どこかで、信じられない猟奇的殺人事件が起きる
とても治安の悪い国・アメリカ。
それに引き換え、我が日本の治安の良さは、
世界に誇れる唯一の長所だと思い込んでいました。
しかし、日曜日の「秋葉原無差別殺傷事件」という
凄惨な出来事が、日本でも起きてしまいました。
刻々と被害者の名前、事件の模様をみつめていた、
我が家に戦慄が走りました。
息子の友達からの緊急電話。
高校時代から音楽を通じて仲良くしていた友達が亡くなったという報。
ニッポン放送報道部に問い合わせて、事実と確認。
高校時代の仲間が、急遽集まって悲しみのどん底へ…。
高校時代、よく我が家へ遊びに来て、ピアノを弾いてくれる、
ピアノ・キーボードの名手でした。
とても明るい音楽の才能の溢れるような女の子でした。
御通夜・告別式と終わり、今、息子は放心状態です。
(つとめて、現実を受け止めようとしているようです)
秋葉原という特異な街、事件発生直後、犠牲者の姿を、
群がって、携帯電話のカメラで撮影し即、友達にメール。
なんとも奇怪な風景でした。
確実に、沢山の人々の感覚が麻痺し、
バーチャルの世界で自分を慰める。
恨みを、はらす…。
おかしな方向に進んでいるようで心配です。
これまでも、理不尽なニュースは、
伝え手として、淡々とニュースの読み手として、
仕事を果たしていましたが、
今回ほど、世の無常を痛感したことはありませんでした。
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6月 6日
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ワッハ!?髪型
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男性の皆さんは、散髪、どうなさっていますか?
私、昨日行きつけの床屋さんに行って、
いい男に(んなわけないか?)いや綺麗に刈ってもらいました。
齢50を超えて、生え際が後退するとともに、
短めに3週間おきに散髪するようになりました。
短くすると、少しでも伸びると気になるものなんですね。
昔は気取って、桃みたいに7・3に分けたりしてましたが、
朝が面倒で“職人さん刈り”、そうそう亡くなった
志ん朝師匠の髪型をまねてるんですよ。
今、贔屓にして行っている散髪屋さんは、
林家木久扇師匠や、柳家三三さんの頭を刈っている方で、
ジツにうまいんですよ!
私のようなデコ助頭(少々うしろ絶壁)でも、
綺麗にしてくれるんですよ。
昔、中央大学落語研究会時代、
駿河台・中大校舎2号館地下にあった中央大学生活協同組合整髪部に、
「スポーツ刈りにしてください」とお願いしたら、
「おれのスポーツ刈りて言えば五分刈り坊主頭だよ」といわれてギクリ!
「これはいけない・・・坊主にされちゃう」と、
慌てて部室にあった志ん朝師匠の高座写真を親方に見せて、
これと同じようにしてください」と言ったんですよ。
そしたら親方「そりゃ無理な注文だ。この人の頭の形は、
とてもいい形だけど、あんたの頭じゃあ無理だね。」
そのまま理髪台に座ったら、なんとバリカンが、
頭のてっぺんを通るではありませんか!!!
とうとう坊主にされちゃったんですよ。
後で聞いたら、4年生の先輩が親方に「私を坊主にするように」
影で頼んでいたんですよ。
おかげで1年生の間、くりくり坊主で過ごすことになってしまいました。
今はプロ野球選手や、街行く若者が丸刈りにしているのをよく見ますが、
あの頃は「坊主」といえば小・中学校生、
それに、体育会系の下級生くらいのもんですよ。
でも、思い返してみると、あの頃の写真、
我ながら、本当に可愛かったですよ。
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