1242 ニッポン放送
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みのりの日記
栗村 智
栗村 智
 
diary
2月21日
朝といえば…あの男!
今週の「栗村智 あなたと朝イチバン」は、
ニッポン放送・開局55周年!
「あなたが選ぶ歴代パーソナリティーベスト100
ラジオアカデミー賞・朝の顔だよ!全員集合!」と題してお送りしますが、
なにしろ、私・栗村、昭和52年入社。
物心つかない時から、怖いオジさんバッカりの
スポーツアナウンサーの中に放り込まれて、
29年間、ナイター・競馬の毎日。
おおよそ、ニッポン放送の朝番組とは縁のない毎日を送ってましたので、
実は、その頃の思い出といっても…。

そこで、朝といえば!
長年、ニッポン放送早朝番組のパーソナリティを担当した「つかちゃん」、
現在、フジテレビの塚越孝アナウンサーに、スタジオに来てもらって、
その頃のエピソードなどを聞いてみようと思っています。

彼とは、昭和52年、ニッポン放送同期入社なんですよ。
御年「55」歳の私と、19「55」年生まれのつかちゃんの二人で、
ニッポン放送「55」周年を語ろうと思っています。
お一人に現金5万円!
そのほかにも1万円相当のニッポン放送福袋が当たる、
プレゼント盛りだくさんでお送りしますので、
是非お聞きください!
2月14日
たんかん
プロ野球の春季キャンプも、2週間が経過して、
今年は、WBCの関係もあって、
各選手、仕上げもピッチが上がってきているようですね。

この時期、イチバン印象を強く持っている「果物」が、
懐かしくなります。
南国の味「たんかん」…。
昭和55年、ロッテ・鹿児島キャンプの取材時、
当時の小俣進投手と鹿児島市内の谷山という所にある
青果市場へ行き「たんかん」を、初めて食べたのです。
口の中いっぱいに広がるさわやかな甘さは、
新鮮でとりこになってしまいました。

その頃、長いキャンプ期間中、自宅を守る家族に、
盛んにロッテの選手が送っていましたよ。
私も実家によく送ったものです。

今でこそ、東京でも手に入りやすくなりましたが、
当時はまさに「南国の味」でした。
最初のものは屋久島産。
その後、沖縄産の「たんかん」を見つけ、
東京やお世話になった人たちに送っていました。
昭和56年になくなった母が、体力が衰えて、
唯一食べられたのも、この「たんかん」でした。

ネーブルオレンジと、ポンカンの交配種「たんかん」。
この時期、キャンプ取材へ行けなくなった今でも、
昔から付き合いのある、沖縄・牧志の公設市場にある
果物屋さんから送ってもらっています。
今年の「たんかん」の出来はどうなんでしょうか?
そろそろ電話しようと思っています。
2月 7日
こけちゃいました…
久しぶりに、新宿のアカシアにロールキャベツを食べに行ったのですが、
満腹になった重い体を、雑踏の中で、新宿末廣亭へと向かいかけた矢先、
つまづいて、そのまま体勢を立て直せずバッタリと転んでしまいましたよ。

したたかに膝を打ち、手の平をすりむきましたが、
先を急ぐ新宿駅東口の人々は、チラリと私を一瞥しただけ。
ま、捻挫もしてなかったので、
痛みと恥ずかしさに耐えるには幸いでしたが、
いいオッさんがこけたら、まず大きな怪我の可能性があるのに、
無視は有難くもあり、寂しくもあり…。

大きな怪我をしなくてホッとしましたが、
躓いただけで足の送りが付いていかなかった、
体力(脚力)の衰えに、我ながら驚きました。
「う〜、55歳…。少し脚力強化しなければと、強く感じた矢先、
翌朝、新聞開いてビックリ…。

「山内一弘さん、死去」。
私がニッポン放送・ショウアップナイターの実況アナとして、
初めて担当した、ロッテオリオンズの監督さんでした。
1979年から、そう…落合博満・現、中日監督が、
東芝府中から入団した年でもありました。
熱っぽい「やめられない・とまらない・かっぱえびせん♪」と
あだ名された、職人気質の人でしたが、不勉強な報道陣の質問でも、
一生懸命、技術面まで説明してくださる人でした。

今となっては、1980年(昭和55年)パリーグ・前期優勝時、
川崎球場で、優勝監督インタビューをさせていただいたのが、
山内さんとの大きな思い出のひとつです。
先週、寄席ファン、桑原洋之助さんがお亡くなりになり、
その上、悲しい出来事が続いてしまって、かなり落ち込んでます。
でも、しっかりと歩いて行かなくちゃ…。
1月29日
真の寄席ファン
創刊以来、寄席ファンの私の必携書「東京かわらばん」2月号が手元に届き、
「さて来月は、どこの寄席に行こうか?」とペラペラページをめくっていて、
愕然としました。

「編集部より」
訃報…寄席通の間では、有名な落語好き・桑原洋之助さんが、
1月12日、肺がんにてお亡くなりになりました。76歳でした…。

そんな文字が目に飛び込んできました。
私は志ん朝師匠が亡くなって、暫く寄席通いをやめていました。
久々に復活させた2004年くらいから行くたびに、
客席でお会いしてたのが、桑原さんでした。
リタイヤされてから、寄席通いを復活された桑原さん。
2000年からは、ほとんど毎日、どこかの定席、
あるいはホール落語の会場に顔を出されていました。
ご自慢は「2005年に302回寄席通いしたこと」。
白髪頭の下に、ニコニコ柔和な微笑みを浮かべて、
客席で楽しんでいらっしゃいました。

「私は世で言う評論家の皆さんのように、無料で行くわけじゃないから、
喬太郎さんの時は、暑くっても寒くっても並んで入るから、
入ったからには楽しまなくっちゃ」と仰っていたのが思い出されます。
「手抜きや不勉強な噺家みても、どう変わっていくかを、
見つめているだけで楽しいですよ」と目をほそめていました。
帰り際に言葉をかわすと、
「志ん八うまくなってきたよ〜。一回、師匠んトコ飛び出したらしいけど、
歌ぶと(現・歌太郎)よく戻ってきたねぇ。権助提灯、結構だねぇ」
耳元で囁いていました。
毎日の寄席通いは無理な私は、さん喬・喬太郎のトリの芝居で、
一日でも行けたら、必ず桑原さんに、
両師匠が何を毎日高座にかけたかを伺うのが、楽しみでした。

去年、しばらく会えず心配していたら、
夏場、深川江戸資料館のホールで、杖をついてお見えになり、
ご病気のことをうかがいました。
秋の新宿・末広亭でお会いしたのが最後でした。
お好みは小三治・さん喬・桃太郎・権太楼・鯉昇、
市馬・喬太郎・遊雀などでした。

訃報を目にした今日の東京は、雪でも降りそうな寒さ…。
こんな底冷えする日、ごひいきのさん喬さんがトリならば、
高座でかけるであろう「雪の瀬川」、
このネタが、桑原さんはイチバンお好きでした。
「長い間、ありがとう、お世話になりました。
おかげで楽しい晩年の八年間でした」という言葉を
仲間に残して旅立たれたとか…。
桑原洋之助さん…、真の寄席ファンでした。
ご冥福をお祈りいたします。
1月23日
噺家だってタイヘンだ!
2009年、年改まって、もう3週間たったんですね。
寄席も初席(1日〜10日)、二之席(11日〜20日)、
新宿・浅草・池袋は「大入り満員」でした。
こんな不景気、浮世の憂さを、晴らそうというのでしょうか…?

池袋は、客席がはちきれちゃうんじゃないかと思うほど、
連日立ち見のお客さんが、鈴なりでしたよ。
何しろ、12時30分開演の昼席の席を求めて、
お客さんが10時前から並ぶという凄まじさですからねえ…。
かつてビルの3階にあった、先の演芸場では、
先代・紙切り正楽さんと「1対1」。
注文で4枚きってもらった同じところとは信じられません。

二之席は、小三治師匠がトリですから当たり前とはいうものの…。
この間の18日・日曜日、池袋演芸場に、
開演1時間前の11時30分に行ったところ、
なんと!もう立ち見。
仕方なく、ロビーの喫煙所のモニターテレビで、
トリの小三治さん登場までつないで、
「二上がり鞨鼓」の出囃子が聞こえてきたところで、
ぎゅうぎゅうの客席へ…。
いつもの「長〜い枕」が終わり、
十八番の「こんにゃく問答」、51分の高座でしたが、
さげで仕込みを抜かして、途中で気づいたのか、
辻褄を合わせようとしてはいたのですが、
「3文にまけてくれてえから、あかんべえ〜」まで持っていけず
「そんなんで…あかんべー」と、
気まずそうな顔で高座をおりられました。

毎年、二の席は、池袋演芸場昼席のトリ掛けもちで、
その後、新宿末広亭夜席のトリとハードなスケジュール。
落語ブームとはいえ、高座のつっかえようからして、
相当疲れてるんだろうなぁと心配してしまいました。
隣のおじいさんがため息つきながら、
ひとこと「小三治も終わったなぁ…」。
この言葉には、ズキンときてしまいました。
「そうじゃないよオジさん、小三治師匠、ハードスケジュールで、
疲れてるだけだよ・・」と、一人ブツブツ言いながら、
池袋駅へ向かいました。

どこの寄席にも、小三治さんに出てもらいたいけど、
そろそろ掛け持ちはやめてもらって、一席一席大事に、
勤めてもらいたいですね。
きっと、次に小三治さん聞く時は、
また、あの素晴らしい高座であることを、祈りながら…。
 
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