1242 ニッポン放送
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みのりの日記
栗村 智
栗村 智
 
diary
2月 6日
朝青龍
江戸時代、寛政の頃、あんまり強すぎて、
横綱になれなかった雷電為衛門。
これは、対戦相手が怪我をしてしまうので…ということでしたが、
いやぁ、長い歴史の相撲界で、天下の横綱が素行の悪さで、
事実上、クビになってしまうとは…驚きました!
モンゴルの騎馬狩猟民族の慣習とは、
相容れぬものがあったのでしょう。

謙譲の美徳を理解できない。
おれがチャンピオンで威張ってなぜ悪い。
高砂親方の指導が甘かったということで、
2階級降格もわからないではないんですが…。
育った風土が全く違うだけに、
どんどん二人の意思の疎通は難しくなったんでしょうねぇ。

次第にこっちはやりたい放題。
そっちは見て見ないフリ…。
相撲が、国技とは名ばかり。
九州場所はガラガラ。
これを契機に純日本でやり直すべきでしょう。

日本がどんどん豊かになって、
ハングリーな若者がいなくなって海外へ、
スカウトの足をのばした…。
金髪にちょんまげ…不自然ですし、
大相撲を国際化する意味がないですよね。
日本のプロ野球でも、これまで何人も、
外国人選手に日本の慣習を押し付けて
悲しい思いで帰国してしまった
外国人プレイヤーは山ほどいますよ。

「手に取るな、やはり野に置け蓮華草」といいますからね。
ただ、高見山さんや、小錦さんのように
順応した人もいるのですが。
乱暴狼藉の限りをつくした横綱を、
許すわけにはいかないけれど、ちょっとねぇ…。
投げかけ自在の朝青龍の相撲は勿体ないデスヨねえ。
格闘技に行くんでしょう(!?)ねぇ。
1月30日
一年の計はキャンプにあり!
「春の兆しは梅の開花から」とよく言われていますが、
今年は、東京の梅が「10日も前」、大寒の頃に開花したんですよね。
寒い寒いといっても、昔に比べりゃあ、相当暖かめになってますね。

そんな中、2月1日から、
いよいよ、プロ野球春季キャンプが始まりますね。
昭和53年から平成18年まで、スポーツアナウンサーだっただけに、
プロ野球キャンプ突入というのは、心躍るものが今だにありますよ。
南九州・沖縄・四国へ、2週間近く取材に飛んで、
シーズン開始に備えるという大義名分。
各選手と懇意になるチャンスもこの時!
各キャンプ地を訪問しながら、
他局のアナウンサー・解説者とも知り合えるチャンス。
心細くなるような小さな飛行機でヘロヘロになったり、
ローカル線に乗り遅れて、3時間、次の列車を
ひとっ子一人いないプラットホームで待ってたり、
得がたい経験もたくさんしました。

何といっても、その土地、それぞれの名物・地酒も
たっぷり味わえる…!
若きスポーツアナウンサーの頃、
「一年がず〜うっと2月ならいいなあ」なんて
不謹慎なこと考えたこともありました。
田舎の宿で一人、これまでの反省とその年の目標設定を
じっくり出来る期間でもありました。
その間、選手の皆さんは汗みどろになって、
練習の毎日ですから、地獄の毎日で嫌でしょうけれど…。

鹿児島のロッテオリオンズのキャンプの選手と報道陣の
同宿がOKだった頃、広々とした、桜島を望む展望風呂で
知り合って懇意になったのが、
現・中日ドラゴンズの落合博満監督でした。
火山灰のシラス台地にある鴨池球場で、
真っ黒い汗かいて、猛烈な練習をやってました。
30歳までに土台をがっちり固めた彼は、
40近くなったジャイアンツ時代は、
一年の長いペナントレースを生き抜く、
ゆったりとした練習パターンに変えて調整していました。
20代から30歳まで。
30歳から35歳まで。
それから晩年…。
彼はこのシーズン前の2月・3月を、
それはそれは大切に、毎年課題を設けて過ごしていました。
一年の計は、キャンプにあり!
「この時期にどれだけやっているかが勝負を決める」と言っていました。

プロ野球人気が、どうのこうのいわれる昨今ですが、
このキャンプを実際に見てみたら、
一シーズン、長いペナントレースの楽しみ方もまた、
変わると思いますね。
1月22日
干支も三回まわれば…
早いもので今年・2010年寅年も、3週間経ってしまいました。
今年も都内寄席定席、相変わらずのブームで
初席からどこも立ち見鈴なりの大盛況だという噂を耳にしながら、
さて、今年の初寄席はどこにしようかと狙いを定めていたところ、
「小三治師匠、体調崩して、16日急遽代演をたてた」という報に、
心配になり、行ってきました。

新宿末広亭・二の席・九日目夜の部、
開口一番、前座の辰じん君が上がるとき、
すでに2階桟敷席もほぼ満員…。

落語 辰じん「たらちね」 
落語 三之助「金明竹」 
漫談 ぺぺ桜井 
落語 扇遊 「権助芝居」
落語 はん治「ぼやき酒屋」
落語 小燕枝「強情灸」 
奇術 夢葉   
落語 円丈 「新がまの油」
落語 正蔵 「鼓ヶ滝」  
落語 金馬 「四人癖」  
漫才 ホームラン 
落語 川柳 「ガーコン」
落語 円蔵 「反対車」 

中入り

太神楽社中 寿獅子 
落語 一朝 「宗論」
落語 小袁治「犬の目」
落語 志ん橋「熊の皮」 
音曲 小菊 

トリ 小三治「厩火事」
 
鼻声ながら小三治師匠、
口慣れた十八番の「厩火事」が聞けて、先ずは一安心。
寄席がはねたあと、隣の栄寿司で一人ちょい一杯…。
「あ〜、うまかったァ」

翌日・楽日、小三治師匠、
元気に「かんしゃく」を演じ、
今年も正月恒例、池袋昼・新宿夜二の席
小三治、二軒ばねは、無事終わりました。

寄席へ行くたびに観賞記を残すようにしているのですが、
三回り前の寅年・1974年(昭和49年)1月19日。
その当時の池袋演芸場の観賞記を見てみましょう。
今から36年前のその日、80人くらいのお客さん。
(当時の池袋では、大入り)

昼の部
トリ 小さん「二十四孝」   

夜の部 
落語 孔志「孝行糖」
落語 寸志「権助魚」 
声帯模写 鶴八 
落語 三蔵「長短」 
落語 駒三郎「やかん泥」
百面相 栄一 
落語 志ん朝「替り目」 
落語 朝馬 「浮世床」
落語 木久蔵 「漫談」
落語 円之助 「義眼」 
太神楽 小仙社中 
落語 こん平 「クイズの穴」 

中入り 

落語 馬楽「強情灸」
落語 円菊「幾代餅」
落語 さん助「かぼちゃや」 
落語 文蔵 「鍬潟」 
漫才 さえずり姉妹

トリ 落語 10代目馬生 「初天神」

あの頃は、お客さんも深まるごとに一人減り、二人減り…。
最後、馬生師匠が高座に上がる頃には、
50人くらいに減っていましたね。
当時を思い出すと、やっぱり今は落語ブームなのでしょうねえ…。
1月15日
栗村智 大学4年生のひとりごと
このところの寒さは、ちと堪えますねぇ。
注意はしていたのですが、何しろ趣味の落語で寄席定席へ。
映画で近くのシネコンへと、人の集まっているところばかり
足を運ぶんですから、どうしようもないですね。
新型インフルエンザにかかり、高熱で大騒ぎ。
熱も下がりやれやれと思っていたら、
咳・痰に苦しんでいます。

てなわけで、今週は家のコタツにもぐりこんで
大人しくしていました。
エアコンで暖めると、乾燥気味になるので、
30年ほど前の方法、石油ストーブに薬缶乗っけて、
コタツで暖を取る作戦をとって、
辛うじて土曜日の放送にこぎつけることが出来ました。

石油ストーブ、コタツ、そしてドテラ…。
かつての下宿学生の「三種の神器」!
思い出しましたよ、今から32年前。
留年を覚悟していたところへ、
ほとんど想定外の就職決定ですから慌てましたね。

昭和52年1月の卒業試験。
普段講義に出ないで、落語研究会の部室に入り浸っていましたから
友達、知人、見ず知らずの人にまで、
ゴロニャンとなついて、講義ノートをかき集めました。
思考力のなさは、普段、落語を覚える要領で模範解答を丸暗記。
先生の担当するゼミ生から、先生の特質を取材して、
ついでに、問題のヤマも張って貰い、丸覚え。
徹夜徹夜で、一人前の真打のモチねたくらいの量の
模範解答を覚えましたよ。

お陰で、何とか卒業。
あの時のコタツ勉強…、あんなに集中したことないですね。
回答を、落語のように覚えるわけですから、
口でボソボソ繰り返しながら暗記です。
4畳半一間のボロ下宿…。
隣の人に「夜中、ボソボソうるさい!」と毎夜のクレーム。
試験中は、試験官に「キミキミ!独り言言っちゃ、迷惑でしょ!
口を閉じてやりなさい!」と叱られても、
何しろ、頭が覚えてるのではなく口が覚えているわけで、
終いには気味悪がって、試験官氏は近寄ってこなくなりました。

寒風吹きすさぶ外を眺めながら、
コタツでこつこつぶつぶつ暗記した懐かしい思い出。
今となっては、何の役にも立っていませんがね。
あんなエネルギー…「今、出せ!」と言われても二度と出せません。
1月 9日
ランディ・ジョンソン引退に思う
メジャー22年・303勝、
46歳のランディ・ジョンソン投手が、6日、引退を発表しました。
1995年、野茂英雄がメジャーリーグにデビューしてから、
日本の野球ファンとアメリカ・大リーグの距離が縮まり、
パワフルでワイルドなスーパーメジャーとして、
日米いや、世界に名をとどろかせたのが、
「ビッグユニット(大きな物体)」 こと
ランディ・ジョンソン投手でした。

まさに超ド級の剛球投手でした。
私も、日本からアメリカに渡った日本選手を追って、
私も1995年から2005年までアメリカを駆け回りましたが、
その中でイチバン早いボールを見たのが、
ランディ・ジョンソン投手・31歳のときでした。

忘れもしない、我らが野茂英雄が、
メジャーリーグオールスターに初出場した日・1995年7月11日。
アメリカテキサス州、ザ・ボールパーク・イン・アーリントン。
野茂がナショナルリーグの先発で、
ランディ・ジョンソンが、アメリカンリーグの先発でした。
気温40度、強烈な西日が肌を刺すネット裏放送席、
「さあ、いよいよ待ちに待ったMLBオールスターゲーム、試合開始です!
先行ナショナルリーグ、フィリーズのご存知レニー・ダイクストラに
ランディ・ジョンソン第一球をなげたっ!」
緊張して、強張った口を大きく開いて実況をはじめた私は、
思わず「ひぇ〜〜〜!!!」
ジョンソンが、31歳全盛期、長くても2イニングでいい
名誉のオールスターゲーム、腕も折れよと投げた一球でした。
こんな凄みのあるボールは、
あれから、一度として見たことはありません。
当時、世界最高峰・MLBナンバーワンの投手の凄みに、
摂氏40度の球場で寒気さえ覚えた瞬間でした。

今は亡きパンチョ伊東さんに連れて行ってもらった前日の前夜祭。
アメリカの各地にある大きな遊園地の一つ、
シックス・フラッグスを貸しきって行われました。
オールスター出場者とその家族、MLB関係者が一同に集う
大規模なパーティーで、ホームラン競争のあと、
摂氏38度という強烈な蒸し暑さの中たくさんの屋台が並び、
野茂投手ご家族、バリーボンズ夫妻などなど大賑わいでした。

そんな中、常夜灯の下のベンチに座って、
乳母車を小さく動かしながら、赤ん坊を寝付かせている大男を発見!
なんと奥さんに子守を頼まれた、ランディ・ジョンソン投手でした。
隣に座って「日本から来たラジオのアナウンサーです。
少しだけお話していいですか?」と話しかけたら、
「ああ、いいよ。ただ、娘が目を覚まさないように
小さな声で話しかけてくれる?」との答え。
拙い英語力を駆使して、5分ほどお話できたのがいい思い出ですねぇ。

帰国後、こういうチャンスが又来ることを信じ、
ベルリッツ、ヒヤリングマラソンで必死に勉強しましたが、
あの時ほどのリラックスした普段着のメジャーリーガーと
話が出来る機会は訪れませんでした。
 
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