6月 2日
■1969年■忘れられない中日・小川健太郎の「背面投げ」■
1969年といえば、

●アポロの月面着陸
●東大安田講堂占拠

のあった年。スポーツの世界では、

●大鵬の連勝が45で止まる
●夏の甲子園決勝、松山商対三沢の18回引き分け再試合

 延長18回引き分け再試合の決勝は、2006年に早稲田実業対駒大苫小牧が
記憶に新しいが、甲子園の歴史で最大のヒーローは三沢高校の太田幸司投手だろう。
何せ、宛名が「青森県 太田幸司様」だけのファンレターが郵便で届いたという話だ。
「東京都 斎藤佑樹様」「北海道 田中将大様」では届かなかっただろう。

69年=昭和44年のプロ野球で忘れられないのが、小川健太郎の「背面投げ」だ。
巨人戦で打席に王貞治を迎えた中日・小川投手は、バックスイングの腕を背中にまわし
ヒョイっと背面から投球してみせたのだ。しかも、その試合で2度試みた。
いずれもボールの判定だったが、そのうち1球はストライクとコールされてもおかしくない
球だった。

小川健太郎は奇をてらった投球をするイロモノではない。当時の中日のエースである。
67年には29勝を挙げて沢村賞に輝いている。そんな一流投手が「背面投げ」という
奇襲に出なければならないほど、王貞治が打ちまくっていたのである。
まともに投げたら、どこにどんな球種を投げても打たれる。
せめて王を驚かせてタイミングを狂わせてやろうという苦肉の策であった。
二宮は当時の捕手、木俣達彦に話を聞いたことがある。小川投手は背面投げの前に、
股の下から投げる「股下投球」も練習していたそうだ。その上、ストライクが入ったという。
よほど手首が強かったのだろう。しかし、さすがに股の下から投げるのは、相手に失礼だ
ということでやめて、背面投げになったそうだ。
背面投げが行われたとき、巨人の三塁コーチだった荒川博が「不正投球だ」とクレームを
つけたが、富沢球審は「不正投球ではない」とはねかえした。小川は試合前、予め
「背面投げをしてもいいか」と富沢に確認していた。富沢は「どうぞ」と答えたという。

当時の巨人戦は視聴率30%。ほとんどの野球ファンがその投球を目撃した。
翌日、草野球に興じる子供たちはみんな背面投げを真似していた。
そもそも、王の一本足打法だって相当変わったフォームだ。
子供たちは一本足打法も真似したし、近藤和彦の天秤打法も真似した。
バットを天秤棒のように両手で頭上に持ち上げて、そこからグリップに右手を持ってきて
スイングする近藤和彦の変則フォームを子供たちは競って真似していた。
あの頃は個性的なフォームが多かった。
それに比べたら、イチローの振り子打法など普通である。

小川健太郎はオートレースの八百長事件にからんで球界から追放され、淋しい晩年を送った。
95年に61歳で亡くなっている。
彼の現役時代を思い出す。下手投げの美しいフォーム。不吉な背番号13。
まるで「魔界からの使者」のような不気味なあの背面投げ。
当時大人気だったアニメ「巨人の星」に魔球が登場したのも
そんな個性的な選手がゴロゴロといたプロ野球界が背景にあった。






 
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