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【青木愛・あおきあい】シンクロナイズドスイミング 北京オリンピック出場(2010年5月24日〜5月28日オンエア)

夢に向かってチャレンジするアスリートをクローズアップ!
先週のゲストはシンクロナイズドスイミングで活躍された青木愛さんでした。
北京オリンピックに出場された話題を呼んだ青木愛さんに、たっぷりとお話を伺いました。


【青木愛・あおきあい】
京都府出身、1985年生まれ25歳。
地元京都のスイミングクラブ京都踏水会でシンクロを始め
小学校4年生の時にジュニアオリンピックに出場し優勝。
中学2年生から名門・井村シンクロクラブに所属、
2005年に日本代表入り、2006年ワールドカップで銀メダル獲得。
2008年には悲願の北京オリンピックへ出場。
北京オリンピック終了後に現役引退を表明、現在はシンクロの楽しさを多くの人に伝える。

青木愛さんオフィシャルブログ
http://aokiai.cocolog-nifty.com/blog/






【青木愛さんとシンクロとの出会いは?】
京都踏水会というスイミングクラブで0歳10か月の時から水泳をしていたらしいんです。
もちろんその頃は記憶はなく、物心ついた時ぐらいにシンクロコースのお姉さん達によく遊んでもらったりしていて、凄い優しくしてもらったりしていて。
それでシンクロを見ても凄い綺麗だったので「私もやってみたい!」と思って始めました。
 〜京都踏水会と言えばすごく歴史のある名門のクラブで、実は私も通っていたんです。
100年以上の歴史のあるクラブなんです、オリンピック選手もたくさん出しています。
 〜シンクロは走るとか泳ぐと言うより「浮く」といった動作だったりかなり難しい事が多いと思うのですが、小さい頃はそのあたりをどう思っていましたか?
たとえば足をあげられて「ヤッター」という風に1つ1つの動作が出来るたびに嬉しかった記憶があります。
 〜鼻栓とか痛くありませんでしたか?
「いったい鼻の横の皮って何枚あるんだろう?」と思うくらい何枚もめくれて痛かったですね(笑)
 〜京都踏水会の練習はとてもハードではありませんでしたか?
京都踏水会だけではなく、シンクロの練習はとてもハードなので休みの日ならば8時間9時間は泳ぐ事があるので「体がふやけちゃう」と思ったこともあります。
 〜いつ頃から選手を目指したり、練習がハードになって言ったのでしょうか?
入った時は足を上げれてお遊戯をしているような感じだったのですけど、小学校4年生の時にジュニアオリンピックに出させてもらってそれぐらいからですかね「メダルが取りたい!」と思うようになってシンクロ漬けの毎日になったのは。
 〜そのジュニアオリンピックでは何と優勝をされるんですよね!
あまり考えた事が無かったんですが、その時は本当に必死で自分の学年が一人で後は全員上の学年の人だったんです。
小学校の試合だから1コ2コ上なだけなんですが、みんな小さいころからやっていて凄い上手だったので「ついて行かなくちゃ!」と必死だったのは覚えていますね。
 〜青木さんと言えば高身長なシンクロ選手でしたが、子供のころから背は高かったのでしょうか?
そうですね、この間家の掃除をしていた時子供の頃のアルバム出てきたので見てみたら、他の子に比べて一人頭一個分以上大きかったですね。
 〜シンクロのどんな所が好きでした?
プールの中で足を上げられて、凄い可愛い水着を着させてもらって、そしてみんなにそれを見てもらえるところです(笑)
最初はお母さんとかに水着を作ってもらうんですが「わー今回の水着かわいー」といった感じで水着でモチベーションが上がっていましたね。



【青木愛さんにとって一番の努力は?】
北京オリンピックの選考会が第一次第二次とあったのですが、第一次の時が11位だったんです。でもオリンピックに行けるのは9人、それで本当に死ぬ思いで第2次に臨みました。
 〜選考会はいつごろ開かれたのですか?
1次選考会が9月で2次選考会が12月でした。
 〜この3ヶ月間気持ち的にはどのように自分に言い聞かせていたりしたのでしょうか?
「今、頑張らないと小さいころの夢が全て無くなってしまう」と思って跡が無い気持ちで練習に臨んでいました。
選考会の当日も「落ちたら辞める」と思っていましたね。
でも、選考会に出てくる他の人たちも、全員うまい人たちばかりです。
そんな中、規定演技が終わった後に順位が出るのですが、それを知らなかったので自分が今何位なのかとか知らない状態で「今、自分は凄い下にいるから落ちた、もうシンクロをやめるんだ」と思ってたんです。
その状態で代表選考の発表に行ったのですが、そこで落ちたと思っているのに名前を呼ばれて「えっ」という感じで嬉しいというか驚いたという感じでしたね。
 〜そんな苦労をして出場をつかんだオリンピックで一番支えになったのは何でしょうか?
やはり家族の応援と、友達の応援です。
本番前でもメールとかどんどん来るんですその中に「凄いプレッシャーは大きいけど、自分の演技をして自分が満足がすればいいから」というのがあって「そうだな」と思って、良い気持ちの状態で臨めました。


【青木愛さんにとって一番の壁・挫折は?】
壁とか挫折はたくさんあるんです。
その中でも一つ目は高校の時に普通の女子高生みたいな事がしたかったんですけど、ちょうどその時クラブの先輩がすごく怖くてそれで「もう無理だ」と思い選手としては最低なんですが無断欠席をしてしまって普通の女子高生の生活に逃げようとしたんです。
でもシンクロしてた時は普通の女子高生の生活が楽しそうに思えたのですが実際にやってみたら意外とそうでもなくて、でもシンクロに戻ろうかと思っても先輩は怖いし、という感じで悩んでいて。
その時毎晩、コーチから「明日は練習においでや」と電話をもらって、私にはやはりシンクロしかないなと思って戻ったんです。
その後、井村先生からはメチャクチャ怒られました、「辞めたかったら辞めろ!」みたいに言われてビシッ!みたいな感じで(笑)

二つ目は大学二回生の時なんですけど始めてナショナルAチームに入った年のローマオープンという大会の前に肩に水がたまるという故障をしたんです。
腕を上げようとしてもまっすぐ伸ばして肩の高さまでしか上がらないくらいに痛くて、それで泣く泣くリタイヤしてそこからはずっとリハビリをしていた事です。
その時は井村先生も忙しかったんだと思うんですけど井村先生にずっと見ていただいてありがたかったです。
恥ずかしいんですけど水中で幼稚園児が腰につけるようなヘルパーをつけて、クロールで綺麗に泳げるようになるな所から井村先生に付き添ってみていただきました。
 〜本当に愛情を感じますね?
病院も井村先生の知り合いの方の所にワザワザお願いしてくださってたまについてきてくださったり、本当にお世話になりました。
 〜井村先生と言うと“厳しい”というイメージが強いんですけど実際にはそういった一面もあるんですね
練習の時は本当に厳しいんですけど、練習の時と普段はまるで180度違う感じで凄くあたたかい先生です。

 〜オリンピックが終わってから引退されましたがこれはずっと決めていたんですか?
キリがいいというかオリンピックという目標があって、オリンピックが終わった後に何と言うのか「気持ちが抜けた」では無いですけど、そこで終わりという感じで、その時も井村先生から「選手辞めていいんか?」と言われたんですけど、そこは「はい」と答えました。


【青木愛さんにとっての思い出の一曲・マイメモリーソングは?】
KANさんの愛は勝つです。
小さい時に家でかかっていてその時は全然意識していなかったんですけど、ipodを買った時に曲の入れ方が良く分からなくて友達に頼んで入れてもらったら良く分からない曲もたくさん入っていたんですけど、その中にこの愛は勝つも入っていて聞いたら「あ、これ私の曲」と思って自分にこの歌の愛の部分を自分に置き換えて試合の前とかにずーっとリピートで聞いて「最後に自分は勝つんやで!」と思って聞いていました。
 〜そんな現役時代、気分転換だったりオフの日は何をしていましたか?
合宿中のオフだったら、コンビニに行くとか建物の外に出られたらオフ、みたいな感じでしたね。
あと練習をやっている時間が長いので毎晩お風呂とかはパッパっと入って終わりなんです、でもお風呂は大好きなのでオフの日はスパみたいな所に行って、大浴場に行ってサウナに入って水風呂に入っての繰り返しをしています。
 〜練習で毎日水の中に入って、オフの日でも水の中にいるんですね(笑)
でも、自分の中では全く別なんですよ(笑)
あと、立っているのが辛くて、重力に負けるんですかね(笑)


【青木愛さんの今後の大きな目標は?】
オリンピックという夢を叶えたので、今はやりたい事は全部挑戦してやってみるという事ですね。
でもやっぱりシンクロが好きなのでシンクロに関わった仕事をしたいと思っていて、今は自分を育てていただいた京都踏水会でシンクロのコーチをやっています。
あと体育の先生を目指していて、一応大学は三月で卒業はしたんですけど科目等履修生という形で教職の単位を取りに行っているんです。
 〜教育実習なども行かれるんですよね、でも生徒は自分が教わっている先生がオリンピックの出場選手だったら嬉しいでしょうね?
どうなんでしょう、今もシンクロを教えている生徒たちからはそんな風に見てもらえなくてたまに「愛ちゃん」とか言われて(笑)完全になめられているので(笑)
 〜ご自身としては井村コーチのように「厳しくしよう」みたいな事はあるんでしょうか?
怒られるのって好きな人がいないじゃないですか、自分も怒られるのは嫌だったのでコーチをしようという時に優しい怒らないコーチになろうと思って一か月は我慢しようと思ったんですけど、やっぱり無理で(笑)
怒らないとやっていけないと思って今は厳しく育成をしています。
将来オリンピックに出るような選手が自分が育てた中から出てきたらうれしいですね。

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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