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【清水宏保・しみずひろやす】スピードスケート(2010年10月25日〜10月29日オンエア)

夢に向かってチャレンジするアスリートをクローズアップ!
先週のゲストはスピードスケートの清水宏保さんでした。
長野オリンピックで日本のスピードスケート史上初の金メダルを獲得した清水さんに貴重なお話をたっぷり伺いました。





【清水宏保・しみずひろやす】スピードスケート
北海道出身1974年生まれの現在36才。
スケートの名門・白樺学園高校でを経て日本大学に入学。
在学中の1993年にワールドカップ初出場で初優勝。
オリンピックは1994年のリレハンメルから2006年のトリノまで4大会連続出場し、
長野では500メートルで金、1000メートルで銅、ソルトレークでは500メートルで銀と合計3つのメダルを獲得。
今年3月に現役を引退され、今は新たな人生のスタートをきったばかりです。



【清水宏保さんにとって人生で一番大きい出会いは?】
一番大きい出会いは父親ですよね、出会いと言うか何と言うか、とにかく父親から受けた影響がすごく大きかったんですよ。
父親から受けたスケートの指導論とか、人を育てていく気持ちの問題など、凄く大きい影響を受けました。
それと父親以外では高校と大学のスケートの恩師ですね。高校の時はトレーニングメニューの全てをコーチ・指導者から与えてもらうのではなく、与えた中の半分は先生が考えてくれ「残りの半分は自分たちで考えなさい」と、それが考えるトレーニングの意味だと教えてくれそういった環境を作ってくれたんです。
大学に進学しても高校の時の恩師と同じような考えを持っておられる方で、その方は逆に「一週間丸々自分たちで考えろ」とそれでたまに見に来てくれ、脱線した時だけ修正してくれると言った指導法でしたね。
なので高校の時から自分で考えると言うトレーニング方法が身についたんです。
もちろん最初の一年間は基本となる部分、ベースとなる部分をしっかり教えていただいて、そこから順序良くトレーニングの捉え方、トレーニング理論であったり、精神的なものであったりとか、全て教えた中で自分自身でそれを活かす場を与えてくれるシステムを作ってくれましたね。
 〜先週も伺いましたが清水さんの独創的なアイデアや、チャレンジ精神はそういうとこからはぐくまれてきたんですね
そうですね、それと体が小さいという事でやはり人と同じ事をやっていたのでは絶対に勝てないですし同じ数をこなせていけないんですよね、なので小さいころから器用にこなしていくような指導方法を与えられてきたので、そういった意味で幼少期から大学を卒業するまでトータルでそういった指導法をうけてきましたが僕には向いていたと思います。、
 〜お父様は高校生の時に亡くなられてしまいましたが、成功した姿を見せたかった想いはやはり強かったのでしょうか?
インターハイに優勝した所も見せた事が無かったので、そういった意味では見せたかったですし、何よりもおとなになるとお酒を飲むようになるじゃないですか、なので父親とお酒を飲むのはどういうものなのかな、とか、大人になって父親と接していたらどうなっていたのかな?と競技をやっていた時も競技も辞めた今も思う事はあります。
 〜お父様から教わった一番大切な事はなんでしたか?
人一倍努力する事ですね、特に小さいんだから人一倍努力しそして勝った時こそ次に向かって努力をしなさい、勝って兜の緒を締めよ、という事を教わりましたね。



【清水宏保さんがスピードスケート人生でぶつかった大きな壁・挫折は?】
たくさんあり過ぎて思い浮かばないんですけど、代表的なのは身長が小さくて喘息というのがあるんです、自分の中ではそんなの関係ないよと思いながらも周りから「清水君は喘息を持ってるし、身長も低いからダメだよ」と言われ続けた事が悔しかったし自分でも「ちくしょう覆してやろう!」という反骨精神もあったのですけど、実際何度も言われ続けると「本当にそうなのかも」と思ってしまう自分もいましたね。
 〜清水さんの身長は162センチ、やはりスピードスケートの選手では小さい方なのですか?
そうですね、昔は180センチ以上ないと全日本を含めアジアの選手は世界で通用するにはダメだと言われていたんです。
なので僕がスケートをやっていた時も周りは180センチ以上の選手しかいませんでしたね。
 〜しかし周りからの言葉で悩んだ時期もあったのですね、大体何才ぐらいの時期が一番辛かった時期でしたか?
やはり小学校・中学校の頃は相当影響がありましたよね。
 〜そんな中、清水選手を支えたものはなんでしたか?
やはり父親ですね、父親が「結果でしか周りを覆す事は出来ないのだから、まずは結果を出しなさい」と、そういう指導法でしたので支えられましたね。
あとは周りが「こうだろう」「これくらいだろう」と思いこんでるのを覆す事が自分にとってのモチベーションとなっていったんですよね、それが脳からドーパミンが発せられるような気持良い現象になっていったというのはありましたね。
 〜ある意味で良いバネになっていったんですね
最初はただの挫折だったのですけどその挫折を大きくプラスに変えていったというのはありましたね。



【他に壁・挫折と言うと何が思い浮かびますか?】
やはり競技者としては怪我と病気というのが常に僕のスケート人生の中で背中合わせだったというのがありましたね。
一つは喘息を持っている中で結果を出さなければいけないという時に挫折になった事もありました、しかしそれは自分で経験していきトレーニング次第で覆せるんだと言う事を学びましたね。
そして競技を続けていく上でもう一つ挫折になったのは腰痛でしたね、僕は普通の腰痛ではなく4種類の腰痛を持っていまして椎間板ヘルニア、分離症、すべり症、滑膜のう胞、といってどれも神経を圧迫する痛みであったり骨が割れていたりとか骨が触って分かるぐらいずれていたりとか、その中で2002年にソルトレイクオリンピックが行われたのですがそこで結果を出さなければいけない状況だったのですが、とてもトレーニングを続けられる状況ではなかった普段の生活すらままならなかった腰の痛みでして、でも3カ月後にはメダルを求められているというような状況になっていてその時は「本当にスケートを辞めてしまいたい、このまま辞めたらどんなに楽なんだろう」と自分自身の中でこのままスケートを辞めるか、それともオリンピックに挑んでいくか、という葛藤が凄くありましたね。
 〜その状況の中、オリンピックに行こうと支えたものは何だったのでしょうか?
その最悪な状況の中で「どれだけ自分が気持ちを保てるか」とか、「どれぐらいの順位・結果を出せるか、それをトライしてみよう」と言った挑戦心が芽生えてきたんですよ、どんな状況でもトライをしていくというのは楽しい事なのでそこで結果を考えずに行っていたというのは良かったと思います。
 〜結果として500メートルで銀メダルを獲得されました、この時は痛みはどのくらいあったのでしょうか?
レース時は痛み止めの注射を打ちながら痛み止めの飲み薬を服用して、あとは自分で興奮する事によって興奮作用でアドレナリンが出るのでそれである程度痛みを抑えられた状態にしているのですが、その後の夜にリバウンドで激しい痛みに襲われるのでそれを覚悟の上で痛み止めを使いながら抑え込んで行きましたね。
 〜コンディションが万全でない中での銀メダルというのは貴重なものでしたか?
競技をするうえで万全の状態でメダルを取れた事もありますが、最悪の状態でメダルを取れた事はなかなかないのでそれは自分の中の経験値としてとてもいいものでしたね。
長野オリンピックの金メダルより、怪我の状態でのソルトレイクの銀の方が価値があったのではないかな、そして次につながるアスリートとして大きな階段になったと思います。



【清水宏保さんにとって思い出の一曲・マイメモリーソングは何でしょうか?】
EXILEYour eyes onlyです。
2001年にJ Soul BrothersからEXILEになった時の曲なんですけど、初めて聞いた時EXILEがZEPPをLIVE会場として回っていた時期で、たまたま知り合いだった方がEXILEを作った方で、その方に招待されてZEPP札幌の方に行ってみた時に歌声であったり演出であったりトータル的に見て素晴らしくて「エンターテイメントとはこういうモノなんだ」と言うのを見せられましてEXILEが好きになりこの曲が大好きになったんです。
 〜2001年と言うとソルトレイクの前年、練習しながら聞いていたという思い出はありますか?
ソルトレイクで腰痛と戦っていた時にEXILEのアルバムを送っていただいてずーっと聞いていましたね、なので2002年のソルトレイクは腰痛と戦いながらEXILEを聞いてテンションを高めてレースに臨んでいましたね。
 〜清水さんの輝かしい経歴を支えていたのがEXILEの曲だったのですね、ご本人たちにお会いした事は?
最初のデビュー当時の頃はよく会っていて、最近は凄い事になっているので(笑)ホントに今は老若男女皆さんご存知ですからね。


【清水宏保さんにとって今後の大きな目標は?】
スポーツの振興という事は、スポーツを辞めた選手みんな持っていると思うんですけど僕は生涯スポーツの普及をしてきたいなと思います、それはなぜかと言うと医療費の削減につながっていくからです。
3種類スポーツというのはあると言われていて、僕らのやっていた競技スポーツ、もうひとつはレクリエーションスポーツ、そして一生楽しんでいける生涯スポーツ、生涯スポーツは一生楽しんでいけ一生健康と付き合っていけるようなスポーツですね、そういった事をやっていく事で医療費が削減されると言う事は諸外国ではデータとして出ているんです。
そして日本と言うのは今一週間におけるスポーツ実施率は44%と言われています、諸外国特に多いヨーロッパなどでは96%と言われています。
日本の土壌的に気候であったり土地柄であったりスポーツをしていくことは難しいというのは解っています、その中で室内などで病院施設も含め出来る運動というのはたくさんあると思うんですよね、そういったものが出来たらいいと思います。
なぜそういう事を思うかというと僕自身が喘息患者で喘息を通じて運動療法をやっていたというのがあったんですね、それは自分の経験上でスポーツ・運動=健康と繋がっていくという事がわかったんですね。
じゃあそれを誰がやっていくかというと、オリンピックに出たような選手たちが現場に関っていくのがいい事で、そのシステムが出来たらな、と思う訳なんです。
 〜スケートだけではなく色んな競技の方と一緒にですね
そうですね、色んなスポーツの方々がそういう風に一緒になってくれたら嬉しいですね、もちろんそれなりの知識を学んでもらうために専門学校に行ったりとか、オリンピックに出た経験だけ伝えるのではなく、それプラスアルファ学んでいく姿勢というのは必要になってくると思います。
そして知識をベースとして経験もプラスになれば色んなところでのりしろというのは付いてくるとおもいます。
僕は今はそのシステム作りに力を入れていきたいなと思いっていて、実際に最近もこの前オリンピックに出ていたスピードスケート選手と話していた時、その子は20代後半なんですけど「スケートはまだやりたいけど1人の男の人生として考えた時にもうやめるべきかと思う」と「実際にオリンピックに出ても何も残らなかったし、それだったらどうしたらいいですかね?」と相談されたんですよ。
彼だけでなく日本全国のオリンピック選手たちはそういった悩みにみんな直面しているんです。
努力しても努力の矛先がわからないし、目標すら設定できないような状態なんですよね、そういった目標を作ってあげたり環境作りをしてく、コーチではないですけどスポーツ今シェルジェ的なものを作れたらなと思っています。
 〜アスリートの第2の人生の手伝いという意味でもそういったシステムづくりを考えていらっしゃるんですね!
最後にスポーツの魅力を改めて教えてください!

達成感を味わえる事ですね、普段社会の中で生活していると達成感というのはなかなか味わえないんですよね。
スポーツというのは、その達成感が最も味わいやすいドーパミンが出やすいものなんです。
そして体をリフレッシュし健康につながるという意味では絶対に必要なものだと思います。

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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