PersonalityProfile

1965年、香川県生まれ。
1985年、内村光良と「ウッチャンナンチャン」を結成。
数々のテレビ出演で人気を集め、 1989年からは『オールナイトニッポン』のパーソナリティも 務める。
近年はバラエティー番組のほか、スポーツキャスター・記者としても活躍し、その他にも演劇・映画・落語・執筆活動など多岐に渡る活躍を見せている。

GuestProfile

佐伯美香(さいき みか) 1971年9月25日 愛媛県松山市生まれ。 小学5年生からインドア・バレーボールを始めて、高校卒業後の1990年、名門「ユニチカ」に入社。 全日本女子チームのエースとして、 95年のワールドカップ、96年のアトランタオリンピックに出場。 97年からは、ビーチバレーに転向。 2000年のシドニーオリンピックに高橋有紀子選手と出場して、日本人過去最高の「4位入賞」。 その後、結婚を機に一度引退、出産後の02年に現役復帰。 08年には、北京オリンピックに出場し自身3度目となる五輪出場を果たします。 現在は指導者として、インドア、ビーチを問わず、バレーボールの普及に努めている、佐伯美香さんです。

01月29日の放送は

ニッポン放送「南原清隆のスポーツドリーム」(1月30日放送)
(今週のゲスト:京谷 和幸さん)


(南原)室蘭大谷高校時代は、サッカーで3試合連続ハットトリックして、ジェフ市原に入団して・・・数奇な運命があって、車椅子バスケに出合って・・・
(京谷)Jリーグ開幕した93年の半年後の11月に事故にあってしまって…
最初は自分がサッカー出来なくなるって考えてなくて、痛みがあったのが左のアバラ骨で、ここの骨を折っているだけかなと思っていたんですよ。足もしびれているだけだろうと。ところが、時間が経つにつれて、足の異変とか、妻が忘れていった日記をのぞき見して、脊髄損傷というのに気付いていくんですけど。宣告されたのは、入院して2ヶ月後なんです・・・実は事故を起こして11日後に妻と入籍していたんですよ。
(南原)これもなんかスゴイ話で・・・衣装合わせをする日に事故に合った。
(京谷)そうなんですよ。結婚式の衣装合わせの日の朝に。
(南原)そういう運命になったのに、奥様が籍を入れるっていうのは・・・京谷さんが立ち直るキッカケっていうか・・・
(京谷)それが一番だったと思いますね。自分が宣告を受けて、これからどうしていいか分からなくなった時に、(車椅子生活という)こういう状況が分かっていながらの妻の入籍というのが、「このままサッカー出来なくなるっていうのをクヨクヨ考えててもね」って思って。とにかく彼女を幸せにしなきゃいけないって、その思いが先でしたね。
(南原)自分ひとりの運命じゃなくて、結婚したんだから、夫としてねぇ。
(京谷)入籍が無かったら、たぶん何もなかったかなと・・・
(南原)車椅子バスケをはじめようと思ったキッカケは何ですか?
(京谷)スポーツは何かやろうと思っていたんですけど。たまたま妻が障害者手帳を市役所に交付しに行ったときに、そこで受付してくれた方が車椅子の方で、今私が所属している千葉ホークスの選手の方だったんですよ。そこで車椅子バスケットの存在を知ったんですね。
(南原)あ、奥様が行って話を伺ったんですか?奥様いなかったら何も無かったじゃないですか(笑)
(京谷)そうなんです。引き寄せたのは、やっぱり妻なんですね。で、その方がスカウトに来てくれたんですよ。全くバスケットもやってないのに。その時は北海道に帰るつもりだったんです。
(京谷)そのあと、リハビリ病院で車椅子バスケのチームがやっていたのを見て、「この程度だったら俺イケるな(笑)」と思ったんです。その後に自分の所属する千葉ホークスの練習を見学した時に、「これは無理だ!」って思ったんです。
・・・というのは、最初に見たのは東京都の最下位のチームだったんです。で、僕が入る千葉ホークスって日本一のチームだったんですよ。
(南原)(笑)
(京谷)レベルがあまりにも違いすぎて・・・
(南原)車椅子バスケは、車椅子界の格闘技って言われてるんですよね?
(京谷)最初に驚いたのは、タイヤの焦げる臭いっていうか。
(南原)え〜!そうなんですか?
(京谷)自転車のタイヤが体育館の床で急ブレーキをかける感じです。あと車椅子同士が当たる金属音。まだリハビリで退院したばかりの自分には「こんなのありえない」って。

(南原)大きさが変わらないんですよね?普通のバスケットボールと、コートの大きさも。
(京谷)ゴールの高さも3ポイントラインも、フリースローラインも全て一緒です。

(南原)3ポイントとかね、ゴールの高さって、立ってる高さと椅子の高さと、えらい遠くに感じますよね?普通シュート打つ時に、ひざとか、股関節にクっと力を入れてから、伸び上がるようにシュート打つんですが、それはどうするんですか?

(京谷)車椅子って惰性があるじゃないですか、ちょっと前に。助走というか、それを使って打ちます。近い距離ならもちろん止まって打てます。

(京谷)・・・やっぱり日の丸への思いを、強く感じる時があって。それは、同級生でまだ現役でJリーガー続けている藤田俊哉の結婚式に行った時。みんな回りJリーガーで、日本代表クラスで、誰かがワールドカップの話をした時に、みんないなくなっちゃったんですよ、僕一人ポツンと・・・で、こいつらと同じ土俵に立ててないなと思ったんですね。それで同じ土俵に立つためには競技は違っても日の丸を付けることだなと思って。
それで、日の丸への思いとか、憧れや誇りを思い出して、「よーし、やってみよう」と感じたんですね。

(南原)人間的に二回りも三回りも大きくなって・・・あのまま事故がなくて、サッカー続けてたらどうなってたんですかね?
(京谷)たぶん終わってたんじゃないですか?(笑)
(南原)あっはっは(笑)
(京谷)選手としては最悪でした・・・今自分で振り返ると、わがままだし、自己中心で傲慢だし、自分よりサッカーうまい奴いないと思ってたんですよ。人を認めないし、人の助言も聞かなかったし、そうやってサッカーやっていた20・21歳の頃でしたね。
(南原)今勘違いした自分に会ったら何を助言したいですか?
(京谷)本当に、人をまず認めろ、人を褒めろ、人のために何か出来るかって事を考えろと・・・。当時事故をおこして入院している時に出来なかった事をこれからやろうと思ったことなんですよ。バスケットを始めた時にコレをやってみようとしたんです。未知の世界だし。

(南原)3回連続パラリンピックに出て・・・日の丸を付けた時の感じってどうでした?
(京谷)最初に通知が来た時は、妻と乾杯しました。やっとこういうところまで来れたと。

(南原)北京のパラリンピックでは日本選手団の主将を務めた。
(京谷)なんで僕がなったのか分かんないですけど・・・(笑)
(南原)人を認めなかった男が(笑)
(京谷)こんな男がいいんですかって話ですけど・・・(笑)
(南原)人間的に成長して、それだからこそですよ。

(南原)奥さんの作るカレーライスが大好きらしいですね。
(京谷)カレーがとにかく好きで・・・
(南原)子供か!(笑)
(京谷)朝昼晩カレーで良くて、一週間カレーで、ちょっと飽きたらカレーうどんとか、カレー焼きそばにしてもらったりとか。カレーでいいんです。
(南原)(笑)はっはっは
(京谷)食べ過ぎちゃうんで、ご飯を減らしてキャベツを入れてもらったりとかするんですよ。それだけおかわりしちゃうんで。
(南原)あんまり体が大きくなっちゃうと、ねえ。
(京谷)肘とか肩とか負担がかかっちゃうんで・・・
(南原)まあ、京谷家が元気よく微笑ましい感じが伝わってきますが・・・(笑)


京谷 和幸さんのリクエスト曲
「未来」松本秀人
(京谷さんの人生を元に歌った、応援ソング)
京谷さんと奥さんの半生を描いた映画「パラレル」が各地で上映中です。
「未来」も挿入歌として使用されています。

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来週も車椅子バスケットボール日本代表の京谷和幸さんが登場!
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