スポーツ伝説

4月12日~16日の放送内容

【プロ野球 杉下茂投手】

 フォークボールは今でこそ珍しくありませんが、1950年代のプロ野球では“魔球”と呼ばれました。その魔球・フォークを、日本でいち早く使って活躍したのが、中日ドラゴンズのエース・杉下投手です。杉下投手がフォークを投げるようになったのは、明治大学時代のことでした。
 しかしプロ入り後、杉下投手がひと試合でフォークを投げるのは多くて10球程度。ここぞ、という場面でしか投げませんでした。そんな杉下投手が、フォークを何十球も投げた試合が、一度だけあります。54年、3勝3敗で迎えた、西鉄ライオンズとの日本シリーズ第7戦です。杉下投手は第6戦までのうち、4試合に登板。うち3試合で完投していました。勝てば日本一の試合。すべてを託された杉下投手は、チームのために、フォークを目いっぱい投げようと決意。この試合で90球投げたうちのおよそ半数、40球以上がフォークでした。杉下投手は西鉄打線をわずか3安打に抑え、1対0で完封勝利を収めました。
  


【プロ野球 中利夫選手】

 1955年、群馬県の進学校・前橋高校から中日に入団し、ドラゴンズひと筋で18年間プレーした中選手。67年には、巨人・王貞治選手、大洋ホエールズ・近藤和彦選手と激しい首位打者争いを繰り広げ、3割4分3厘の高打率でみごとタイトルを獲得しています。さらに引退後の78年から3年間、中日の監督も務めました。
 中選手が得意としていたのが、俊足を活かしたセーフティバントです。1年目に広島戦で放ったプロ初ヒットも、セーフティバントによるものでした。この試合、中日は8回までノーヒットに抑えられていました。中選手は9回に代打で登場すると。絶妙なバントヒットを決め、チームを不名誉な記録から救いました。また首位打者を獲った時も、セーフティバントによって内野安打を稼いだことが、タイトル大きな武器になりました。
 


  
【プロ野球 井上弘昭選手】

 井上選手は1973年、中日・与那嶺要監督のたっての希望で広島から中日にトレードで移籍してきました。がっちりした体つきから、ついたあだ名が“ポパイ”。そのパワーを武器に、チャンスに強い打者として活躍しました。
 闘争心あふれる選手を好んだ与那嶺監督。インコースに来るボールを怖がらず踏み込んでいく井上選手は、どうしても欲しかった選手でした。そのためデッドボールの数も多く、通算137個を記録しています。



【プロ野球 宇野勝選手】
 
 中日ドラゴンズの歴史において、球団最多となる通算334本のホームランを記録したスラッガー・宇野選手。1976年のドラフト3位指名で中日に入団すると、身長180㎝の大型ショートとして注目され、プロ3年目の79年には早くもレギュラーに定着します。ところがレギュラー定着後の7シーズンで6度のリーグ最多失策を記録し、決して名ショートとは言えませんでした。81年、ショートフライをおでこに当てて捕り損ねた「ヘディング事件」はあまりにも有名です。
 それでもレギュラーの座を維持できたのは、守備の負担が大きいショートとしては異例の長打力があったからにほかなりません。81年には25本のホームランを放ち、続く82年には、初めてシーズン30本の大台に乗せてみせた宇野選手。この年、8年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献しています。84年には、初めてホームラン王のタイトルを獲得。レギュラーでショートを守る選手がホームラン王に輝いたのは、史上初の快挙でした。


【プロ野球 森野将彦選手】 

 東海大相模高校では強打の内野手として鳴らし、1996年のドラフト2位で中日に入団した森野選手。1年目から一軍に呼ばれ、デビュー戦で放ったプロ初ヒットはホームランという鮮烈デビューを飾ります。ところが本来のポジションであるショートは競争が激しく、2年目・3年目は一軍に呼ばれることはありませんでした。焦りを感じた森野選手は、ショート以外のポジションにも積極的に挑戦。ファースト・セカンド・サード・外野と、言われればどこでも守りました。
 転機になったのは、2004年から指揮を執った落合博満監督との出逢いです。06年からサードのレギュラーの座をつかんだ森野選手は、プロ10年目で初めて規定打席にも達し、リーグ優勝にも貢献しました。10年は自己最高となる打率3割2分7厘を記録、選手会長としてもチームを牽引し、この年もリーグ優勝に貢献しています。
  

  

来週のスポーツ伝説は……

4/19(月) プロ野球 長嶋茂雄選手
4/20(火) プロ野球 野茂英雄投手
4/21(水) プロ野球 上原浩治投手
4/22(木) プロ野球 松坂大輔投手
4/23(金) プロ野球 藤浪晋太郎投手
                       
お楽しみに!!
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