スポーツ伝説

5月11日~15日の放送内容

【プロ野球 正田耕三選手】

 1970年代から80年代にかけて、広島カープはスイッチヒッターの名選手を何人も輩出しました。そのひとりが正田選手です。84年のロスオリンピックで金メダル獲得に貢献すると、その年のドラフトで広島カープから2位指名を受けてプロの世界へ。3年で芽が出なければ、実家の蕎麦屋を継ぐつもりだったといいます。そんな正田選手の運命を変えたのが、プロ1年目、85年の終盤に当時カープの指揮官だった古葉竹識監督から勧められたスイッチヒッター挑戦でした。
 もともと正田選手は右打者でしたが、センスの良さを発揮して、シーズン最終打席で早くも左打ちでの初ヒットを記録。2年目の86年からは本格的にスイッチヒッターへ転向し、シーズン中盤からセカンドのレギュラーに定着しました。するとこの年、高橋慶彦選手との二遊間コンビでリーグ優勝に貢献します。3年目の87年には初めて規定打席にも到達し、2番打者として29犠打をマークした上に、巧みなセーフティーバントなどでヒットも重ね、ホームラン数はゼロながら打率3割3分3厘をマーク。巨人・篠塚利夫選手と同率で、初の首位打者に輝いたのです。スイッチヒッター、しかもホームランがゼロの首位打者という珍しい記録となりました。



【プロ野球 篠塚利夫(和典)選手】

 プロ野球史上最高の“安打製造器”イチロー選手が影響を受けたのが、80年代を中心に読売ジャイアンツの名セカンドとして活躍した篠塚選手です。イチロー選手はプロ1年目に“篠塚モデル”のバットを手にしてから、引退するまで基本的に同じ形状のバットを使っていました。篠塚選手は1974年、千葉県の銚子商業2年生の時に夏の甲子園に出場。打率4割超えと打ちまくり、全国制覇に貢献しました。その打撃センスに惚れ込んだのが、74年の現役引退後、すぐに指揮官となったミスタージャイアンツ・長嶋茂雄監督でした。病気の影響で3年生の時は甲子園に出られなかった篠塚選手でしたが、長嶋監督は篠塚選手の獲得にこだわり、75年のドラフト会議で1位指名に踏み切ったのです。
 入団後しばらく二軍生活が続きましたが、80年のシーズン途中にセカンドのポジションをつかみ取ります。ところが、この年限りで恩師・長嶋監督は辞任してしまいました。プロ6年目の81年は、藤田元司新監督が就任。開幕当初はルーキー・原辰徳選手にセカンドの座を奪われ出場機会が激減しましたが、この経験が篠塚選手の意識を変えました。外されたいためには成績を残すしかないと、再びセカンドで出場機会を得るやヒットを量産。左打者ながら右方向だけでなく、左方向にも芸術的な流し打ちを見せ、自己最高の打率3割5分7厘をマーク。巨人の4年ぶりのリーグ優勝と、8年ぶりの日本一に貢献しました。篠塚選手は、この81年から89年まで9年連続で130安打以上を記録。ヒットを量産し、84年・87年と2度、首位打者に輝いています。   
  


【プロ野球 石毛宏典選手】

 80年代から90年代前半にかけて、黄金期を誇った西武ライオンズ。その栄光の歴史を演出したのは、1980年にドラフト1位指名で入団した石毛選手です。石毛選手が西武でプレーしたのは81年から94年までの14年間ですが、この間にリーグ優勝11回、日本一8回。チームリーダー・石毛選手の存在は、西武の黄金時代に大きく貢献しました。プリンスホテルから社会人ナンバーワン内野手として入団した1年目、石毛選手は開幕戦からスタメンに抜擢されると、いきなりヒット3本の固め打ち。しかも3本目はホームランと、鮮烈なデビューを飾ります。
 その後もヒットを積み重ね、一時は首位打者争いにも絡んで打率3割1分1厘、ホームラン21本。25盗塁、31犠打の活躍で、文句なしの新人王に輝きます。当時、ベテラン選手ばかりだった西武にあって、石毛選手の若いエネルギーはチームを活性化。82年にはチームが「西武」になって初の優勝を飾り、勢いに乗って日本一も達成。翌83年も日本一連覇を果たしたのです。石毛選手が優れていたのは、長打が打てるだけでなく、盗塁と犠打もしっかり決めるというオールラウンダーぶりでチームプレーに徹したこと。現役時代の通算記録は、ホームランが236本、盗塁が243、犠打が218。すべて200を越えているのは、石毛選手があらゆる場面でチームの勝利に貢献していた証しでもあります。


 
【プロ野球 山倉和博選手】
 
 1981年、打率2割5厘。続く82年は、1割9分6厘。いずれも規定打席に達しての数字で、2年連続打率はリーグ最下位。 80年代、巨人の正捕手として活躍した山倉選手は、意外な場面でよくホームランを放ったため“意外性の男”と呼ばれました。77年のドラフトで1位指名を受け、早稲田大学から巨人入りした山倉選手。78年、阪神との開幕戦で、ルーキーながら、いきなり先発出場すると、2打席目で阪神の開幕投手・江本孟紀投手からプロ初ホームランを放ってみせます。大学4年間で打ったホームランはわずか2本だった山倉投手の開幕戦での予想外の一発に、巨人ナインもビックリ。ところが当の本人は新人らしからぬ落ち着きぶりをみせ、長嶋茂雄監督にスタメンに抜擢されました。その期待に応え、プロ3年目の80年、127試合に出場して正捕手の座をつかんだ山倉選手。打率は2割4分6厘と低くても、ホームランは初めてふたケタの17本に乗せました。
 この年のオフ、3年続けて優勝を逃した責任を取って長嶋監督が辞任。藤田元司新監督が就任しますが、指揮官が代わっても、投手陣から絶大な信頼を得ていた山倉選手の正捕手の座は揺るぎませんでした。ピッチャーがサインミスで予定外のコースに投げ、パスボールになっても、すべて自分で責任を負い、常にピッチャーの性格に合わせたリードを心掛けていた山倉選手。そんな山倉選手の陰の力もあって、81年に巨人は4年ぶりにリーグ制覇を果たし、日本シリーズでも勝利。8年ぶりの日本一に輝いたのです。王貞治監督が初優勝を飾った87年には、自己最多となるホームラン22本を放ち、攻守にわたってチームに貢献。巨人のキャッチャーとして、史上初めてMVPに輝きました。


 
【プロ野球 遠藤一彦投手】
 
 80年代の横浜大洋ホエールズがAクラスになったのは、1983年の1度だけ。特に投手陣のやりくりに苦しみましたが、そんな低迷期のチームを支えたのが遠藤投手です。遠藤投手は、77年のドラフトで大洋ホエールズから3位指名を受け入団。プロ1年目の78年、大洋はこの年から本拠地を川崎から横浜に移し、球団名を「横浜大洋ホエールズ」に変更。遠藤投手はその1期生でした。2年目の79年は、チーム事情から先発とリリーフの両方で活躍。12勝8セーブを挙げ、台所事情が苦しかった投手陣を救います。しばらく役割が固定されていなかった遠藤投手を先発の柱に据えたのが、82年から大洋の指揮を執った、関根潤三監督でした。
 遠藤投手は長身から投げ下ろす快速球と、落差のあるフォークを武器に、83年は18勝、84年には17勝を挙げ、2年連続で最多勝のタイトルを獲得。名実ともに、横浜大洋のエースに成長したのです。遠藤投手がこだわったのは、完投。先発に固定された82年から6年連続で2ケタ勝利を挙げましたが、同時に6年連続で2ケタ完投も記録します。特に2年連続最多勝に輝いた84年の横浜大洋は、チーム打率・ホームラン・打点、すべてがリーグワーストと、打線の援護に恵まれない中で18試合に完投。17勝を挙げてタイトルを獲ったのは、讃えられるべき記録です。


        
来週のスポーツ伝説は……

5/18(月) 女子ゴルフ 樋口久子選手
5/19(火) 女子ゴルフ 岡本綾子選手
5/20(水) 女子ゴルフ 小林浩美選手 
5/21(木) 女子ゴルフ 福嶋晃子選手
5/22(金) 女子ゴルフ 宮里藍選手 
                       
お楽しみに!!
BACK
NEXT