スポーツ伝説

8月7日~11日の放送内容

【棒高跳び セルゲイ・ブブカ選手】

 1983年、ヘルシンキで第1回大会が行われた世界陸上。この大会の棒高跳びで、5m70を跳び優勝。鮮烈なデビューを飾ったのが、当時、旧ソビエト連邦に属していた、ウクライナのブブカ選手です。これが彼にとって、初の金メダルでもありました。ブブカ選手はこれをきっかけに名を上げ、84年5月に当時の世界新となる5m85を跳び、さらに85年7月には、人類史上初の6m超えを達成。その後も様々な大会に出場しては、小刻みに自己の持つ世界記録更新を続け、“鳥人”というニックネームで呼ばれるようになりました。93年2月、母国ウクライナのドネツクで行われた室内競技会でマークした自己最高の6m15は、2014年2月にフランスのルノー・ラビレニ選手に破られるまで、実に21年間、世界最高記録として輝き続けました。  
   
   
 
【高校野球 蔦文也監督】

 選手以上に、監督の個性にも注目が集まる高校野球。甲子園大会の長い歴史において、とりわけ個性的だった監督といえば、徳島県の池田高校で全国制覇を達成した蔦監督です。自身も選手として3度甲子園に出場。プロ野球・東急フライヤーズに投手として入団した経験を持つ、根っからの野球人。そんな蔦監督が目指したのは、スクイズのような細かい野球ではなく、同じ1点なら外野フライで取ればいい、という打撃重視のスタイル。そこで、他校よりも率先して筋力トレーニングを導入し、いつしか池田高校は“やまびこ打線”として恐れられ、蔦監督も“攻めダルマ”の異名をとるようになりました。
 1982年夏、甲子園に出場した池田高校は、鍛え上げた打撃で快進撃を見せます。準々決勝の早稲田実業戦では、荒木大輔投手、リリーフの石井丈裕投手という、のちにプロでも活躍する投手陣から20安打をうばい、14対2で大勝。すると決勝戦を翌日に控えた夜、蔦監督は突然、選手に向かってこう言いました。「明日は私を日本一の監督にしてください! お願いします!」今まで見たことがない鬼監督の懇願に、自慢の“やまびこ打線”が鳴り響き、池田高校は見事に日本一を達成。蔦監督は悲願の甲子園優勝監督になったのです。池田高校は翌83年のセンバツでも優勝し、夏春連覇を達成。86年春のセンバツでも優勝を果たしました。
   
 
   
【高校野球 木内幸男監督】
 
 野球で、誰も予想できない奇抜な戦術をふるう監督の采配を“マジック”と呼ぶことがあります。高校野球の歴史においてたびたびマジック采配をふるった監督といえば、“木内マジック”で甲子園を3度制した茨城の雄・木内監督です。木内監督は1957年、茨城県の取手二高の監督に就任。公立校ではめずらしい職業監督でした。木内監督の采配は、限りある戦力をどうにかやりくりし、最大限に活用する、というスタイル。ベンチ入りしている選手を全員使い切るのは当たり前。カウントの途中でも代打を起用するなど、選手交代が多いことでも有名でした。その一方で、選手の自主性を重視し、自ら考えてプレーすることを求める点も、当時の高校野球では異色の指導方針でした。
 その独特の采配と指導法が実を結んだのが、1984年夏の甲子園大会。強豪校を次々と倒し、悲願の全国制覇を果たしたのです。この優勝を置き土産に、翌85年、木内監督は開校したばかりの私立・常総学院の監督に就任。すぐに甲子園常連校へと育て上げ、69歳で迎えた2001年春のセンバツ大会で優勝。80歳まで監督を務め、60年以上におよぶ監督生活で、歴代6位となる甲子園40勝をあげました。


   
    
【高校野球 尾藤公監督】

 過去、たった7校しか存在しない、甲子園大会での春夏連覇の大偉業。そのうち6校は、私立の野球名門校です。全国を制するには選手のスカウト体勢はもちろんのこと、練習設備などの環境面も充実している私立校が有利、というのは紛れもない事実。そんな中、たった一校だけ、公立校で春夏連覇を成し遂げたのが、1979年の和歌山県立・箕島高校です。そしてこの箕島高校を率いたのが、尾藤監督。
 自身も箕島高校野球部でプレーした尾藤監督が母校の指導者になったのは、66年の秋のこと。就任3年目の68年、のちにプロでも大エースとなる東尾修投手を擁し、早くもセンバツ出場を成し遂げます。この時、尾藤監督はまだ25歳。さらに2年後の70年、こちらものちにプロで活躍する、エースで四番・島本講平投手を擁し、センバツ大会で初優勝。20代にして、甲子園優勝監督となったのです。
 
   

【高校野球 辻内崇伸投手】

 2005年夏の全国高校野球選手権で、剛速球を武器に次々に三振を奪っていく左ピッチャーが注目を浴びました。大阪桐蔭高校のエース、3年生の辻内投手です。入部した時は、それほど注目の存在ではありませんでしたが、名将・西谷監督から徹底的に足腰の強化を命じられると、ストレートの球速が10キロ近く速くなり、2年の秋からエースとして活躍するようになりました。
 1回戦の春日部共栄高校戦では、5回途中で6点を失い降板しながらも、甲子園のスピードガンで152キロをマーク。2回戦の藤代高校戦では、相手バッター全員から三振を奪い、1試合で大会タイ記録となる19個の奪三振を記録。辻内投手は、一躍全国に名前を知られる存在になりました。結局辻内投手は、準決勝までで通算65個奪三振をマーク。これは、徳島商業高校の板東英二投手が1958年に作った83奪三振に次ぐ、当時歴代2位の大記録でした。

   
   
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!
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