スポーツ伝説

11月14日~18日の放送内容

【サッカー 原口元気選手】
 
 アジア最終予選の初戦、ホームでUAEにまさかの黒星を喫し、6大会連続のワールドカップ出場に暗雲が立ちこめたサッカー日本代表。その危機的状況から何とか持ち直すことができた立役者といえば、2戦目のタイ戦でスタメンに抜擢され、そこから4試合連続でゴールを決めた、フォワードの原口選手です。ワールドカップ最終予選での4戦連続ゴールは、1993年の三浦知良選手、97年の呂比須ワグナー選手の3試合連続を超える、史上初の記録となりました。
 原口選手は、今25歳。浦和レッズから、ドイツ・ブンデスリーガのヘルタ・ベルリンに移籍し、中心選手として活躍しています。浦和ユース時代から“天才”と称され、その能力を高く評価されていた原口選手は、17歳の若さでプロデビューすると、クラブ最年少ゴールを記録するなど、瞬く間に、レッズの主力選手に。日本代表にも20歳で選出されましたが、気性が荒く、好不調の波が激しいことが災いして、12年のロンドンオリンピック代表には落選してしまいまいました。そこで一念発起、14年から4年計画で始めたのが肉体改造です。怪我をしない体づくりとスピード強化に取り組み、14年夏には、かねてからの夢だった海外移籍を実現。ブンデスリーガで、普段の練習から1対1で勝負する意識と技を身に付け、元々定評があったスピードにさらに磨きをかけたことで、日本代表・ハリルホジッチ監督の信頼を勝ち取りました。今や日本代表になくてはならない存在となった原口選手。今後も益々の活躍が期待されます。
  

 
【サッカー 呂比須ワグナー選手】

 サッカー日本代表にとって、永遠の課題ともいうべきテーマ「決定力不足」。ワールドカップ最終予選で原口選手に次ぐ3試合連続ゴールを決めた日本代表の選手は、過去たった二人しかいません。その一人が、1997年、予選敗退の危機にあった日本代表を救った呂比須選手です。
 呂比須選手は、ブラジル・サンパウロ出身。名門・サンパウロFCでプロ契約を結びますが、出場機会に恵まれなかったことから、87年にプレーの場を日本へ移しました。当時、日本リーグの強豪チームだった日産自動車や日立でゴールを量産した後、97年にJリーグ・平塚ベルマーレに移籍。憧れの舞台・ワールドカップに出場するため、この年9月に日本国籍を取得しました。日本人となり、すぐ代表に選ばれた呂比須選手は、日本のワールドカップ初出場が懸かったアジア最終予選に臨みます。そんな中、敵地でのウズベキスタン戦で、1対0と敗色濃厚だった日本を救ったのは、試合終了間際に飛び出した呂比須選手の代表初ゴールでした。呂比須選手は次のUAE戦と韓国戦でもゴールを決め、最終予選・3戦連続ゴールを達成。この活躍で日本はワールドカップ出場に望みをつなげます。迎えたイランとの、アジア第3代表決定戦。呂比須選手は2日前に最愛の母の死を知らされますが、ブラジルには帰らず、自ら出場を志願。そのひたむきな姿はチームメイトたちを奮い立たせ、日本は“ジョホールバルの歓喜”と呼ばれる勝利を挙げ、呂比須選手は、記念すべき日本のワールドカップ初出場に大きく貢献したのです。

   
    
【プロ野球 小山正明選手・山内一弘選手】

 プロ野球でトレードというと、出場機会に恵まれない選手同士を交換し、チームにとって弱い部分を埋めるために行うもの、というイメージが強いですが、過去には球界を代表するスター選手同士のトレードが実現したこともありました。その代表的な例が、1963年のオフに実現した、阪神タイガース・小山投手と、大毎オリオンズ・山内選手のトレードです。小山投手は当時、阪神タイガースで8年連続2ケタ勝利をあげ、62年には沢村賞も受賞。当時すでに通算176勝をあげており、阪神の大エースでした。一方の山内選手は、ホームラン王・打点王のタイトルに何度も輝いたことがある大毎オリオンズの不動の四番打者。セ・パ両リーグを代表する選手同士のトレードは“世紀のトレード”と呼ばれ、世間を賑わせました。
 小山投手はその後、移籍1年目の64年に30勝をマークして、自身初の最多勝のタイトルを獲得。オリオンズ時代の9年間で140勝を挙げ、通算では歴代3位の320勝を記録。70年には、球団名はロッテオリオンズに変わっていましたが、10年ぶりのリーグ優勝メンバーにも名を連ねました。一方、阪神の四番になった山内選手も、移籍1年目の64年に31ホーマー、94打点を記録。主砲の重責を果たし、2年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献します。山内選手はその後、日本プロ野球史上2人目となる通算2000本安打も達成。交換された選手が共に活躍したこのケースは「トレードの大成功例」として、今なお語り継がれています。

    

【プロ野球 田淵幸一選手・真弓明信選手】
 
 阪神に在籍した10年間で通算320本のホームランを放ち、75年には43ホーマーを記録。王貞治選手の14年連続ホームラン王を阻止し、初のキングに輝いた“ミスター・タイガース”こと田淵選手。そんなチームの至宝に阪神球団がトレードを通告したのは、1978年11月15日深夜のことでした。実はその1ヵ月前、福岡市を本拠地とするクラウンライター・ライオンズが、西武に球団を譲渡。埼玉県所沢市を本拠地とする、西武ライオンズが誕生しました。その新球団の“顔”として、白羽の矢が立ったのが田淵選手だったのです。田淵選手と、阪神一筋15年のベテラン・古沢憲司投手の2人に対し、西武から阪神に移籍することになったのは4人。その中には、この年パ・リーグのベストナインに選ばれた真弓選手も含まれていました。「セ・リーグだったらテレビに出る機会も多いし、名前も売れる」とトレードに大喜びした真弓選手。その姿は、田淵選手とはあまりにも対照的でした。
 渋々、西武へのトレードを了承した田淵選手でしたが、移籍2年目の80年には、5年ぶりの40本越えとなる43ホーマーを記録。移籍4年目の82年にはチームリーダーとして若手を引っぱり、阪神時代には一度も経験できなかったリーグ優勝と日本一を達成。翌年も、日本シリーズ連覇を味わっています。一方、阪神に移籍した真弓選手は、83年に首位打者を獲得。85年には一番打者ながら、打率3割2分2厘、34ホーマーというクリーンアップも顔負けの成績を残し、21年ぶりのリーグ優勝と、球団史上初の日本一に大きく貢献しました。

 
  
【プロ野球 落合博満選手・牛島和彦選手】

 1986年12月23日、中日とロッテの間で超大型トレードが発表されました。トレードの主役は、この年、史上最多となる3度目の三冠王に輝いたロッテオリオンズの主砲、落合選手。対する中日側の交換要員は、リリーフエース・牛島投手など4選手。前代未聞の1対4のトレードでした。当初、落合選手のトレード相手に名乗りを挙げたのは巨人でした。しかし交換要員を誰にするかで折り合いが付かず、交渉は難航。そこに割って入ったのが、この年のオフに中日の指揮官に就任したばかりの星野仙一新監督でした。「絶対に落合を獲る。ジャイアンツにだけは行かせるわけにはいかない」と、主力選手も交換要因として放出する姿勢を見せたのです。
 結果的にこの大型トレードは、中日・ロッテ双方にとってプラスとなりました。落合選手は、移籍2年目の88年、勝利打点と最高出塁率のタイトルを獲得し、中日の6年ぶりの優勝に貢献。その後も、史上初となる両リーグホームラン王と、両リーグ打点王を達成するなど、期待にたがわぬ働きを見せました。一方の牛島投手も、移籍1年目に最多セーブと最優秀救援投手賞を受賞。これが、プロ入り後初のタイトルでした。翌88年も最多セーブ。89年には先発に転向し12勝。その後、右肩の故障で32歳の若さで引退しましたが、卓越した投手理論でロッテの若手投手たちから多くの信頼を集め、小宮山悟投手や伊良部秀輝投手など、のちにロッテのエースとなる投手たちに大きな影響を与えました。


   
来週のスポーツ伝説は……

  11月21日(月) プロ野球 田中正義投手
  11月22日(火) プロ野球 佐々木千隼投手
  11月23日(水) プロ野球 東西対抗戦
  11月24日(木) プロ野球 吉川尚輝投手
  11月25日(金) スキージャンプ 高梨沙羅選手
            
                       お楽しみに!!
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