スポーツ伝説

8月22日~26日の放送内容

【サッカー 奥寺康彦選手】
 
 奥寺選手は、日本人で初めてドイツ・ブンデスリーガでプレーした選手です。奥寺選手に転機が訪れたのは1977年、25歳の時でした。日本代表が旧西ドイツで合宿を行った際、ブンデスリーガの「1.FCケルン」の監督の目にとまったのです。プロ選手として正式にケルンへの入団を打診された奥寺選手ですが、当時は海外挑戦はおろか、国内での移籍ですら有り得なかった時代でした。ましてや移籍先は当時、世界最高峰といわれたブンデスリーガ。周りからも、安定した会社員生活を捨ててプロ選手になることに反対する声もありましたが、何の実績もない日本人を熱心に誘ってくれたことを意気に感じた奥寺選手は、「やってみなくちゃわからない」と自らを奮い立たせ、海外挑戦を決断したのです。
 77年10月、シーズン途中の加入にも関わらず、早々とベンチメンバー入りした奥寺選手は、12月のカップ戦で移籍後初ゴールを決めました。このシーズン、リーグ優勝の懸かったシーズン最終戦では2ゴールを決め、優勝に大きく貢献。この年、カップ戦でも優勝し、二冠を制したクラブの主力として活躍したのは、日本サッカー史に残る快挙でした。奥寺選手はその後9シーズンにわたりブンデスリーガでプレー。攻守に渡り堅実にこなすプレースタイルから“東洋のコンピューター”と呼ばれ、人気を集めました。86年、当時所属していたブレーメンから残留を要請されながらも、「元気なうちに、ドイツでの経験を日本に伝えたい」と帰国を決意。日本人選手の海外挑戦の歴史は、次世代へと受け継がれていったのです。



【サッカー 小野伸二選手】

 稲本潤一選手・高原直泰選手ら1979年度生まれのサッカー選手は、様々な国際大会で活躍し、“ゴールデンエイジ”と呼ばれて日本サッカーを牽引し続けてきました。そんな中にあって、才能豊かな選手たちの誰もが天才と認め、一目置いたのが小野選手です。柔らかいボールタッチと視野の広いプレーで少年時代から天才と言われ続けて来た小野選手は、1993年、13歳でU-16日本代表に初選出されると、以降、各年代の代表チームで中心選手として活躍。高校卒業時には、Jリーグ13クラブからオファーが殺到する中、浦和レッズに入団しました。98年、日本が初めて出場したフランスワールドカップにも18歳で代表入り。18歳でのワールドカップ出場は、現在も日本人最年少記録です。さらに翌99年にはナイジェリアで開催されたFIFAワールドユースに出場。キャプテンとしてチームを支え、準優勝の原動力となりました。FIFA主催の世界大会で日本代表が決勝に進出したのは、史上初の快挙でした。
 順風満帆な小野選手のサッカー人生でしたが、99年7月、シドニーオリンピックのアジア予選で悪質なファウルを受け、じん帯断裂の大ケガを負ってしまいます。小野選手は、どん底の状況から這い上がり、翌2000年2月、日本代表に復帰。さらに01年には、オランダの強豪クラブ・フェイエノールトに移籍しました。そのパスセンスはやはり別格で02年5月のヨーロッパ王者を決めるカップ戦、UEFAカップの決勝に進出した小野選手は、この大舞台でも貴重な決勝点となるアシストを決め、日本人として初めて、ヨーロッパの主要カップ戦での優勝を果たしたのです。
   
   
  
【サッカー 中村俊輔選手】

 左足から繰り出す芸術的なフリーキックを武器に、Jリーグや日本代表・ヨーロッパで活躍した中村選手は、1997年に18歳でJリーグ・横浜マリノスに入団した直後から、そのキックの精度を高く評価されていました。。3年目の99年に、エースナンバーの背番号10を身につけると、その年のJリーグベストイレブンに選ばれ、翌2000年には年間MVPも受賞します。この年はシドニーオリンピックにも出場し、日本代表のベスト8進出に大きく貢献しました。ところが02年、24歳で迎えた自国開催の日韓ワールドカップでは、チーム戦術や直前のケガの影響もあって、まさかの代表落選。人生で最大ともいえる挫折を味わった中村選手は、更なる成長を求めてイタリア・セリエAのレッジーナへ移籍を決意したました。
 そのレッジーナでも背番号10をつけ、チームの主軸として活躍した中村選手。心身ともに逞しさを増して日本代表に復帰すると、04年にはアジアカップ優勝に大きく貢献。大会MVPに選ばれる活躍を見せます。そんな中村選手が次のステップとして選んだのが、スコットランドの強豪・セルティックでした。移籍初年度の2005-06年シーズンからいきなりリーグ優勝と、国内カップ戦優勝の2冠に貢献。06年9月には、ヨーロッパサッカー最高峰の舞台、UEFAチャンピオンズリーグに初出場しました。中村選手の活躍もあって、チームはチャンピオンズリーグの決勝トーナメントに進出。現行の制度になってからチャンピオンズリーグで得点したのも、決勝トーナメントに進出したのも、日本人初の快挙でした。セルティックは翌シーズンも、リーグ戦とカップ戦の国内2冠を達成。中村選手はリーグトップの12アシストを決め、日本人選手として初めて、ヨーロッパリーグでの年間MVPに輝いたのです。

  

【サッカー 清武弘嗣選手】
 
 2018年のロシアワールドカップで、チームの中心になると期待されているのが、現在スペイン・セビージャに所属する清武選手です。11年、ザッケローニ監督率いる日本代表に初めて招集されると、いきなり2アシスト。香川選手に「デビュー戦であれだけ堂々とするのはすごいこと」と褒められた清武選手。12年7月、その香川選手を追いかけるようにドイツ・ブンデスリーガに移籍し、ニュルンベルクとハノーファーで2シーズンずつプレーしました。
 今年6月、ハノーファーからスペインの強豪クラブ・セビージャに移籍した清武選手。新天地でのさらなる飛躍を目指す一方、日本代表としてワールドカップアジア最終予選に熱い想いをもって挑みます。
 
 
 
【サッカー 長谷部誠選手】

 日本代表のキャプテンを務め、現在はドイツ・フランクフルトでプレーする長谷部選手。2008年からドイツ・ヴォルフスブルクに移籍し、その後はニュルンベルクを経て、現在所属するフランクフルトへ入団しました。今週から開幕するブンデスリーガ・2016-17シーズンで、ドイツ移籍10シーズン目を迎えます。日本代表でも、10年・南アフリカ大会、14年・ブラジル大会と2大会連続でワールドカップのキャプテンを務め、今やリーダーとして欠かせない存在の長谷部選手。周囲からも人格者として慕われていますが、プロとして普段から自分を律するようになったのは、ドイツへの移籍がきっかけでした。
 もともと長谷部選手は人見知りな性格でしたが、ドイツに移籍したばかりの頃は自らコミュニケーションを取るように心掛け、チームメイトから飲みや遊びに誘われた時も、できるだけ断らずに付き合ったそうです。ピッチの上で活躍するためには、コミュニケーションも必要。そしてチームメイトと会話をすることが、ドイツ語の勉強にもなりました。そんな努力を重ねて、一歩一歩、周囲に溶け込んでいった長谷部選手。プライベートでは、今年7月に結婚。よきパートナーを得て、さらなる活躍が期待されます。



来週のスポーツ伝説は……

  『神宮球場にまつわる伝説』
            
                       お楽しみに!!
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