スポーツ伝説

8月17日~21日の放送内容

【プロ野球 鬼頭数雄選手】

 1915年、夏の甲子園大会の前身「第1回全国中等学校優勝野球大会」が始まって、今年で100年。鬼頭選手は、中京商業が3連覇を達成した、第19回大会の優勝メンバーでした。甲子園の伝説となった1933年8月19日の準決勝第2試合、明石中学との延長25回にも、9番センターで出場。成績は8打数1安打2犠打でした。
 卒業後進学した日本大学では投手で起用されたものの、結果は残せませんでした。36年には、職業野球の大東京軍に入団。37年シーズンには、22盗塁で盗塁王のタイトルを獲得しています。40年シーズンには首位打者となり、所属するチームの勝率よりも打率の高い首位打者という、珍しい記録を作っています。鬼頭選手の珍しい記録は、守備でもあります。実は鬼頭選手は、左投げでありながら2塁手となった史上初めての選手。37年には1年で15試合、2塁を守って33刺殺、30捕殺を記録。5年連続で2塁を守った経験のある、稀有な選手なのです。更に、首位打者を獲った40年には3塁手としてもプレー。3塁で実際に打球を処理したサウスポーは、鬼頭選手が最初で最後。記録に残る珍事でした。



【プロ野球 坂崎一彦選手】

 オールドファンの記憶に残る夏の甲子園の波乱のドラマといえば、1955年春夏連覇を狙った大阪浪華商業高校が初戦で敗れたこともそのひとつ。
 55年春の選抜大会で、浪華商業と対戦した桐生高校の稲垣東一郎監督は、全打席で徹底した敬遠作戦を行い、優勝を狙いました。桐生高校のエース・今泉喜一郎投手は監督の指示通り、走者の有無にかかわらず坂崎選手を歩かせました。当時、坂崎選手は史上最強打者と呼ばれていた存在。強打者と勝負したいと思うのは、投手の性。ついに監督の指示に逆らい、坂崎選手に勝負を挑みます。すると坂崎選手のバットが一閃。打球はスタンドへ一直線に吸い込まれて行きました。結局この後、坂崎選手の打席はすべて敬遠されてしまいました。しかし延長11回、その敬遠で出た坂崎選手がサヨナラのホームを踏み、浪華商業は8年ぶり2度目の全国制覇。この大会で坂崎選手は、15打数9安打、打率6割、2本塁打、8敬遠と活躍。卒業後は、鳴り物入りで巨人に入団します。層の厚いチームにあっても、1年目から86試合に出場。2年目には開幕スタメンを勝ち取り、巨人初となる10代での開幕スタメンの偉業を達成しました。
 

 
【プロ野球 岩本義行選手】

 1931年の第17回大会、広陵中学は準々決勝で中京商業に敗れました。しかしそんな中、『中学弩級打者』と報じられたのは、広陵の岩本選手。“山陽のベーブ・ルース”と呼ばれた中学時代を経て、実業団の後、プロ入りしたのは38年。結成したばかりの南海で、初代主将・教育係として奔走しますが、オープン戦の途中で召集令状を受けます。2年の兵役後に、再び南海でプレー。42年7月11日の名古屋軍戦で放った1試合3本塁打は、物資が不足し、用具が粗末な時代にあって画期的な記録でした。しかしこの絶頂期に再び召集。驚くべきは、37歳で7年ぶりにプロ野球に復帰してからでした。
 50年に2リーグ制がスタートすると、松竹に移籍した岩本選手は、38歳の誕生日の3月11日に下関球場で本塁打を放ちました。これは、記念すべきセ・リーグ第1号。しかも満塁ホームランでした。このシーズンは、打率3割1分9厘、39本塁打、34盗塁で、毎日の別当薫選手と共に、日本球界初の「3割、30本、30盗塁以上」のトリプルスリーを達成。翌51年の8月1日には、大阪タイガース戦で、自身の記録を塗り替える1試合4本塁打を記録。この日は2塁打も放っており、1試合18塁打は、現在もプロ野球記録となっています。様々なレコードホルダーとして81年に野球殿堂入りを果たしていますが、なぜかタイトルとは無縁の野球人生でした。



【プロ野球 空谷泰選手】

 1953年夏の決勝戦も史上に残る名勝負でした。剛腕で鳴らした松山商業のエース・空谷投手。エースの全試合完投が当たり前の時代とはいえ、空谷投手は53年夏の大会で、準決勝まですべて完封勝利。同じ四国勢対決となった決勝の土佐高校戦では、1回こそ2点を奪われましたが、その後は見事に抑えて貫禄の全国制覇を成し遂げました。
 54年に中日入りした空谷投手は、入団1年目から7勝をあげ、球団初の日本一に貢献。62年に近鉄で引退するまでタイトルとは無縁でしたが、59年には自己最多の20勝をあげました。57年までは空谷泰という登録名でしたが、58年からは児玉泰に変更。実は空谷投手、松山商業高校に入学するために松山市に住んでいた親類の空谷家に養子に入っていたのです。当時は学校がある地区に籍が無ければ、入学が認められませんでした。実働8年で63勝57敗。防御率2.53は突出した数字ではないものの、印象に残る投手でした。
 


【野球 嶋清一選手】

 甲子園の伝説の一つとなっているのが、1939年の第25回大会、和歌山県海草中学の嶋投手。中学に入学した当初は1塁手でしたが、2年の時に就任した長谷川監督が、その高い身体能力に着目。ピッチャー転向を勧めました。それ以来、制球力とフォームを安定させるため、ひたすらシャドーピッチングを繰り返したといいます。
 39年8月20日の甲子園。海草中学と下関商業の決勝戦は、スタンドが満員でした。決勝戦まで、嶋投手は失点0。しかも準決勝の島田商業戦では、ノーヒットノーランを記録していたからです。激しい投手戦の末、嶋投手は見事、2試合連続のノーヒットノーランを達成。5試合連続の完封勝利で、悲願の全国制覇を成し遂げました。この大会では4番も任され、20打数11安打。3塁打を3本放っています。しかし明治大学在学中に、学徒出陣で海軍に召集。45年3月29日に24歳で戦死しました。2008年に野球殿堂入りを果たしたことで、嶋投手の伝説はようやく若い世代にも知られるところとなったのです。
 


来週のスポーツ伝説は……

 8月24日(月) 大 相 撲 白鵬翔関
 8月25日(火) プロ野球 吉原正喜捕手
 8月26日(水) プロ野球 藤本定義監督 
 8月27日(木) プロ野球 杉山光平選手
 8月28日(金) プロ野球 ジョー・スタンカ投手

                       以上の5名をご紹介します。
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