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【小野寺志保・おのでらしほ】サッカー女子 元・日本代表 (2009年9月7日〜2009年9月11日オンエア)


毎週様々なアスリートをゲストにお迎えしてお送りしているスポーツリアルトーク。
この番組ホームページでは放送では触れることができなかった部分も含め、
インタビューの内容をお伝えしていきます。
先週のゲストは、女子サッカーで日本代表として活躍された小野寺志保さんです。
長きにわたり日本のゴールを守り続け、現役引退後の今年8月には歌手デビューも果たした小野寺さんに貴重なお話を伺いました。



【小野寺志保】(おのでら・しほ)
神奈川県出身、1973年生まれ。
高校入学とともに女子サッカーの名門・読売ベレーザに入団。
翌年レギュラーを獲得しヤングプレーヤー賞獲得。
以来、昨年現役引退するまでベレーザに20年間在籍。
日本代表としては2度のオリンピックと3度の女子ワールドカップのメンバーに選出。
今年8月にはCDをリリースし、歌手デビューを果たし新たな夢に向かい挑戦中。






サッカーとの出会いは?
元々は野球が好きで小さいころはキャッチボールをして育ったんです。でも友達があまり多くなくていつも屋根のボールを投げて雨どいで変化するのを面白がって捕っていました。それを1人で2時間ぐらい平気でやっているような子で、ずっと投げてとっての繰り返しでした。
それで近所のリトルリーグのチームに入ろうとしたんですが「女の子は試合に出す事が出来ない」と言われてしまったんです、それじゃあ練習しても意味ないなと思っていたらちょうど自分の家の向いに住んでる女の子がカッコいいスパイクをはいて家から出て来たんです。彼女に「どこへ行くの?」と聞いたら「サッカーに行くんだよ」と言われ「なんだそれ?」と思ったんですがカッコいいスパイクだったんでちょっとついていったんです。それでついて言って練習を見ていたら私が大好きなボールを捕るというポジションがあってそれがゴールキーパーだったんですよ。
それがあったのが小学校4年生の10月の時です、もう忘れられない出来事ですね。
当時はキャプテン翼が大流行していたので、チームに入った後も一人で公園にボールを持っていき、シュートを打つ時は翼くんになりきって蹴ったボールが跳ね返ってきて捕る時には若林くんになって1人で対決みたいなことをしていました。たまに日向くんになりきってその時は袖をまくってシュートして、捕るときは袖をおろしたり、と言う形で1人で黙々とやっていました(笑)
 〜捕ることの何がそんなに好きだったんでしょうか?
屋根にボールを投げてる時は、びっくりする変化をしてくるのが好きだったんです。サッカーのボールもショートバウンドなどで『ここについたらここに来るだろう』という予測がピタっとあう時が一番面白かったんです。なので難しいバウンドとか、難しい高さのボールをすっと収めるのが大好きでした。

その後中学校を卒業後に高校生でベレーザに入団しますが、入団の経緯は?
中学校の時には一度サッカーを離れてソフトボールをやっていたんです。野球に対する未練もありましたのでそれに近いスポーツということ、そして小学校でやっていたサッカーですが卒業したあと大人のサッカーがあることを知らなかったんです。
それでサッカーはここで終わるものなんだと思って野球に近いソフトボールに行ったんですけど、小学校のサッカーではチームメートに恵まれていて全国大会に出場し優勝できたんです、しかし中学のソフトボール部は普通の部活で市で6チーム中4位とか5位でなかなか勝てなくて、そうなってくると『サッカーって面白かったな』『勝つことって面白かったな』と言う風に自分の中でサッカーがどんどんどんどん大きくなっていったんです。
ソフトボール自体は3年間続けたんですけど、放課後ボールを持ってまた“翼くん若林くんごっこ”をはじめるようになって(笑)それで中学3年生ぐらいの時にたまたま本屋さんでサッカーマガジンという雑誌を立ち読みしていたら「ベレーザ優勝」という記事を見つけたんです、そこで初めて「大人のサッカーってあるんだ」と言う事に気付いて「優勝して強いんだったらここに入ろう」と思ってベレーザに入ることを決めたんです。
それで「入りたいんですけど」と電話をかけたら「3月にセレクションがあるからそれを受けてください」と言われたんです、しかし「自分は一年以上あたためた気持ちがあったんでそれまで待てない」と言ったんです。そしたら「じゃあ練習生で良いから来てみれば」と言ってもらって、それで練習生として一週間ぐらい練習を見てもらった後に「じゃあこれからもよろしく」とコーチの方に握手してもらって入れさせてもらえたんですけど、そこから入ってみたらものすごく厳しいところでしたね(笑)
ちなみに高校受験の時にはまだベレーザに入ることが確定してなかったんですが、自分では入ると決めて通いやすい方向の高校を受験したりしました。


最大の挑戦は?
サッカーでは自分が夢にしていた日本代表になるということですね。ベレーザに入団してすぐにスゴイ実力の差を感じて、毎日練習に行くのが本当に怖くて先輩達は『あの下手には話しかける必要がない』みたいな雰囲気だったんです。実際自分がゴールに立つと打たれたシュートは全部入ってしまって、悔しくって涙が出てくると目がぼやけて余計にシュートが見えなくなってしまうんです。
ホント悪循環に陥ってしまった時に、一緒に暮らしていた祖母が悪い病気にかかってしまったんです。私は祖母を元気にさせるために「おばあちゃん、私は日本代表になるからね」と口に出したときはじめてそれが自分の夢になりました。
でも現実はどん底で半年間ぐらいは一人で何もできない状態でした。でも“日本代表”と言う目標を立てたので『じゃあその為に何をしなければいけないのか?』と言う事をずーっと考えて、その大きな目標からどんどん辿っていくとやっぱり『シュートが入らないキーパーならいい』と言う事がわかっていってひたすら努力しました、それで大体半年間ぐらいたつと「あいつ下手だけど頑張ってるじゃないか」とチームにも受け入れられて、私自身もベストを尽くす事で少しずつ自信を得ていきました。結局祖母は半年でなくなったんですけど、代表になるのには6年間かかってしまいました。


一番の壁や挫折はは?
自分が引退を決めるきっかけとなった、引退の前の年です。
その年の一番最初は、生まれて初めてプロ契約を結んでくれると言われたんですがそれがもう33歳とかだったんです。なかなか代表にも選ばれなくなってから今までの功績もあるので「プロでやっていいよ」と言ってもらったんです。
プロになったら全てをサッカーにささげる生活ができ、ずっとそういう生活がしたかったので実家から練習場のすぐ近くに引っ越したんです。これならすぐに練習に行けるし好きな時いつでも練習もできますし、練習が終わったらすぐに休養も取れるので。
しかしいざ蓋を開けてみたら、年齢と練習量がフィットしていなかったのか今までで一番悪いケガをしてしまって、凄い腰痛だったんですが原因がわからないと診断されてしまって腰に鉄板が入ってしまったみたいに少しも曲がらなくなってしまったんです。
今までそういう大きな怪我もしたことなかったですし、プロ契約させてもらってるのに何もできなくなってしまって、若い選手は自分の事をどう思っているんだろう「小野寺さんお金もらってるのにプレーしてないじゃないか」と思われているかもしれないみたいな事が頭をめぐりました。
今まではプレーをしてきたので何でもはねのけて来れたのですが、その時はストップしてしまったので思考も全て落ち込んでしまいましたね。
それでレギュラーも奪われほかのチームに行こうと思ったんです、しかし当時アメリカに住んでいた兄が「なんでベレーザで取り返せばいいじゃん」とポロっと言ったんです。でもゴールキーパーのポジションって自分もそうだったんですが、若い選手がひとたび出たらミスは許されるしこれからどんどんどんどん伸びていくのでそれをベテランが抜き返すのは非常に難しいんです。
だから兄の一言は「なんだサッカーも知らないくせに」ぐらいにおもってたんですが、だんだんと思いも変わり、最終的にはよそのチームに行ってやるよりは最後の一年ここでダメだったら仕方ない、ここで全部出そう!と思うようになったんです。
結果的にレギュラーを取り返すことができ、優勝もする事が出来ました。
 〜その優勝を手にして引退されたわけですが、20年間の現役生活を振り返っていかがでしたか?
一言でいえば最高の現役生活でした。途中でいろいろいい状況のチームからも誘ってもらったこともあったんですけど、選んで選んでずーっとベレーザを選んでここにいたので、本当に今思うと『ナイスチョイス』だったと思います!


マイチャレンジソングは?
はい!わたし小野寺志保が歌っているSTARTです。
元々ベレーザのチームメートの荒川選手と私がとてもカラオケが好きで年がら年中「歌いたいね」と言っているような感じだったんです。それで荒川選手がボイストレーニングの先生と出会い「今度レッスンするから一緒に来てね」と誘われ、私や澤選手やベレーザの若い選手が何人かやってきて一度レッスンをしたら本当に楽しくて、自分でリズムに乗ってアドリブでハミングしてそれを次の人に渡すみたいなレッスンがあったりして、みんなノリノリでホントに楽しくなってしまって。
それで4回ぐらい回を重ねていたら「面白いから一曲作ってみない?」と言う事になったんです、でも最初は年末にクリスマス会があるのでそれで一曲歌える曲があったらいいね、ぐらいの感じだったんです。
そういう感じで歌詞をみんなで書いて集めたんですが、私しかちゃんとしたものを出してこなかったんです(笑)ちょうど引退する年だったので伝えたいメッセージや思う事がたくさんあったので。
いざ完成したら「コレなんかよくない?」となったんですね、それでもしかしたらたくさんの人たちを励ませることが出来るかも知れないね、ということで「一応、本当に一応録ってみようか」と言うノリで録音して、こうして形になりました。
 〜このSTARTというタイトルに込められた意味は?
自分がサッカーをして挫折とか苦しさを味わった時に、そのまま落ち込んでいたらそこで終わるな、と言う風に思っていたんですよ。それで心の中でそこからいつも横に一本線を「スタートライン」を引けばどっちにでも進めるし、どこからでもどの方向でも進んでいいんだと思っていたんです。
例えば日本代表の発表があって、選ばれた時はすぐに連絡が来るんですが、選ばれていない場合は新聞で知ったりするんです。そこに自分の名前がないことがすごくショックなんですが、この大会にはいけないかもしれないけど次の大会には今ここからスタートすれば一番早くスタートが切れるんじゃないかな?と言う風に考えていて、そういう事がたくさんたくさんあったので自分にとっては現役を引退して新たなスタートではありますけど、これから先長い人生においてもそういう風に同じように考えていけたらな、と思えてこのSTART >と言うタイトルを付けました。


今後の目標は?
なでしこジャパンが2016年に東京にオリンピックが来たと仮定して、そこで金メダルを取ってもらうためのサポートを出来る位置にいたいな、と思っています。
東京で開催されればとても注目されますし、それに2016年はなでしこジャパン的にも集大成の時期にちょうどなってくると思うのでぜひそんな状況をサポートしたいですね。
その為に具体的にはこれから考えなくてはいけないんですけど、まずは歌手として紅白に出る!と(笑)
あとは経営とかを勉強して、女子サッカーがどういう風に発展してけるかとかを考えていきたいのですが、いかんせんここまで自分の好きな事をやってこなかったわけですから付け焼刃ではやれないだろうなとは思っているんですよね。なので、やはりこれから考えていきます(笑)
現役を辞めてからいろんな事を特に「指導者をやるべきだ」と言われて線路も引いてもらったんですけど線路を外れて、外れた時に「あ、何でもいいんじゃん」と言う風に思えて、線路を引いてもらって「それに乗って行かなきゃ」と思っていた時は少し息苦しかったんですけど、外れてからは「選べるんじゃん」と思って、なんでも出来る事・楽しい事はやってしまおうと思っていますね(笑)それが女子サッカーの発展につながれば最高だな、と。
そして、今まで自分が一つ夢をかなえてきたように「それだけを夢中になってやらないと叶わない」と言う事もわかっていますし、逆に言えば「一つ叶えたんだから同じようにやっていけば別の夢も叶う!」と思っているので、見つけたら強いんじゃないかな、と思います。



インタビューを終えて
”ボーイッシュ”という言葉そのままに爽やかな小野寺さん。

その語り口は落ち着いていて、丁寧で、まっすぐ。”小(オ)野(ヤ)寺(ジ)”というのが愛称らしいのですが、頼れる”姐御”として、なでしこジャパンをまとめていたのでしょうね。

そのまっすぐな気持ちは作詞を手がけられた『START』にも表れています。

楽しいことを追い求めていきたい、何かがみつかったら強いはずとおっしゃっていた小野寺さんの第2ステージ。”START”は始まったばかり。楽しみに応援しています!!

(政井マヤ)



政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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