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2019年4月19日
車いすフェンシング・安直樹選手 (1)

今回のゲストは、車いすフェンシングの安直樹(やす・なおき)選手です。

 

安選手は東京2020パラリンピック出場を目指すフェンサーですが、安選手の経歴を語る上で欠かすことができないのが、23年間続けた車いすバスケットボールプレーヤーとしての実績です。

高校生の頃、車いすバスケットボールを始め、日本選手権ではMVPや得点王にも輝きました。2004年には日本代表として、パラリンピック・アテネ大会に出場。その後、日本人初のプロ選手として、イタリアリーグでもプレーされました。

 

車いすバスケットボールでの華々しいキャリアを持ちながら、車いすフェンシングへの転向を決めたのは、「東京の舞台でもう一度アスリートとして戦いたい」という思いでした。

若手の成長もあって、年齢とともに日本代表での居場所がなくなってしまったという状況の中で、2020年東京でのオリンピック・パラリンピックの開催が決まりました。

「これまで海外でもプレーしてきましたが、その根底にあったのは日本代表への思いでした。日本代表で活躍したいから、これまで挑戦をして来られたわけですけど、その日本代表が自分の目の前から消えてしまったというか無くなってしまった、、、何をモチベーションにやればいいのか、これまでと同じような気持ちではやれなくなってしまったというのが、まず大きかったんです。僕の中では、パラスポーツのアスリートとして、一番最高に挑戦できる場所といったら、パラリンピックの舞台というふうに思っているので、やそこを目指したいと思いました」

23年間やってきた車いすバスケットボールは「人生そのもの」だったため苦渋の決断ではあったといいますが、「アスリートとしてはまだやれるという自信」が転向への後押しとなりました。

 

車いすバスケットボールというチームスポーツから、個人競技の車いすフェンシングに転向して、まず感じたことは孤独感。

車いすバスケットボールはパラスポーツの中でも人気のある競技で、チームとしての歴史があり、コーチやマネージャーなどスタッフを含めた練習の環境や指導方法がある程度確立されています。

そういう環境が当たり前だと思ってプレーしていたと話しますが、実際、車いすフェンシングに転向した当初は、東京でもほとんど選手がいない中で、練習場所から確保しなければいけないという状況でした。

自分で動いて、自分で考えて判断して、今の環境を手にするまで、もがき苦しんだこともたくさんあったといいます。

何も用意されていないところで自分で掴んでいくことが一番大変だったと振り返りました。

 

実は、車いすバスケットボールをやっている頃から、何が自分に合うのかを判断しようと、ほとんどのパラリンピック競技に挑戦してみたという安選手。

車いすバスケットボールで培われたチェアワーク(車いすの操作)に関しては、まだまだ自信があり、周囲からも「車いすを使う競技の方が有利だ」「チェアワークを使わなかったら損をする」と言われたそうですが、それまでの強い武器であったチェアワークを必要としない、車いすフェンシングを選んだ理由をこう語ります。

「挑戦というのは、常に楽しいことはないというか、本当に苦しい道のりです。”楽しい”というのがないと続けるのが難しいのは、今までの経験上わかっていたので、純粋に楽しいと思えた競技を選びました」

 

ただ、実際には、車いすフェンシングに転向して、面白いと思ったのは最初だけだったといいます。

車いすフェンシングを初めてやった時、チャンバラ遊びをしていた子供の頃に感じたような感覚があり、これは面白いと思って転向を決め、競技を始めた当初は楽しかったそうです。

しかし、やればやるほど、知れば知るほど、車いすフェンシングの奥深さや難しさを痛感して、今は「壁にぶち当たっている」と話します。

トレーニングのやり方や持って行き方、試合運びという内面的な部分では、23年間の車いすバスケットボール経験が生かされているそうですが、今までやってきたトレーニングに関しては車いすフェンシングに結びついているものではありませんでした。

例えば、車いすバスケットボール時代のチェアワークにより肩が前に入っていたため、フェンシングをする骨格ではなく、プラスになるどころか逆に足を引っ張られてしまった状況だったそうです。

ただ、競技転向をして以前とは180度ガラッと変わったことで、「アスリートとしての“気づき”」はとても大きく、多くのことを学ぶことができたと話しました。

 

車いすフェンサーとして挑戦を続ける安選手。

東京2020パラリンピックへの道のりについては、次回、伺いたいと思います。どうぞお楽しみに!

 

安直樹選手のリクエスト曲:No One / Alicia Keys (アリシア・キーズ)

車いすバスケットボール選手時代、海外で挑戦していた時、苦しいシーズン中にこの曲がよくテレビで流れていて、思い入れのある一曲になったということです。

2019年4月10日
柔道・半谷静香選手 (2)

今回も、柔道の半谷静香(はんがい・しずか)選手をゲストにお迎えしてお送りしました。

 

ロンドンとリオ、2大会連続でパラリンピックに出場した半谷選手は、2016年から東京に練習拠点を移しました。

東京でお世話になっていた道場で指導していたのが仲元歩美(なかもと・あゆみ)コーチ。

ある日、「東京を目指そう!」と声をかけられたことをきっかけに、二人三脚でパラリンピックに向けて稽古する日々が始まりました。

 

仲元コーチは以前、青年海外協力隊の柔道隊員として、アフリカのザンビアで地域の方やナショナルチームの指導にあたっていました。

そのようなご縁もあり、2017年の夏、半谷選手は仲元コーチと一緒にアフリカのザンビアへ武者修行に行きました。

開発途上の国ということで柔道着を持っていない選手がいたり、環境面においても畳がないところもたくさんありました。

畳の上の乗った赤土を掃除することから練習が始まったり、練習場所に来るのに片道4~5時間歩いて来たという方と接する中で(練習できるのが当たり前じゃないんだ…)と感じる場面もいっぱいあったといいます。

 

現地の選手と練習すると、パワフルで力いっぱいやるところが視覚障害者柔道に似ていると感じたそうです。

そこに自分が知っている日本人がいないことで、(誰も見てないなら思いっきりやってしまえ!)と気持ちが切り替わり、組んだ相手全員に勝つことができました。

仲元コーチが現地で教えていた代表メンバーの女子選手(48kg級)と組んだ時には、相手が「勝ちたい」という気持ちを柔道にぶつけているのがすごく伝わって来て、「私にはこれが必要なんだ」と感じる機会にもなったと語りました。

 

先月、3月10日には、日本で28年ぶりの開催となった国際大会「東京国際視覚障害者柔道選手権大会2019」が開催されました。

「勝ちに行きたい気持ちもあるんですけど、自分がどれだけできるかというのを試す試合にしようって決めていました」

女子48kg級で出場した半谷選手は、久しぶりの国際大会ということもあり緊張していたと話します。

日本でやる試合が得意ではないという(自分の中での)ジンクスもあって、どれだけできるかという不安もありましたが、なぜか緊張もせず、リラックスした状態で試合の臨むことができたといいます。

「(審判から「はじめ!」の合図がかかる前、相手と組んでいる時に)いつもは、試合が始まったらこういう展開にしてこうしなきゃいけないって頭の中がいっぱいなんですけど、この大会の時は、『やるしかない!』っていう感じで無の状態でした」

最初から積極的に攻めて粘りを見せる半谷選手。

しかし、海外選手との試合に敗れ(出場した4選手中)3位という結果に終わりました。

それでも、「内容はよかったと思っています。次に繋がる試合になりました」と手ごたえを感じる大会となりました。

 

4月13日には東京2020パラリンピックの500日前を迎える今、半谷選手はこのように抱負を語りました。

「パラリンピック本番が目前に迫ってきて、課題も明確になっています。日本のみなさんの前でしっかり勝てるように課題を克服しつつ、本番を迎えられるように準備して行きたいと思います」

 

最後に、上をめざして進もうとする方に伝えたい“Going Up”な一言を伺いました。

『 今出来ること事を全力でやる 』

「目標が大きいとくじけそうになるので、小さい目標をクリアしていくことが近道になると思う」。半谷選手が大好きな(マラソンの金メダリスト)高橋尚子さんが話していた、このことを目標に頑張っていると、この言葉に込めた思いを教えてくれました。

 

半谷静香選手リクエスト曲: 無限大 / 清貴∞

歌詞の中にある”もっときっとワクワクするようなことに出会う気がする”というフレーズが大好きで、いつも聞いている一曲だということです。

 

次回のゲストは、車いすフェンシングの安直樹選手です。どうぞお楽しみに!

2019年4月5日
柔道・半谷静香選手 (1)

今回のゲストは、“ショートヘアに笑顔”がトレードマーク、柔道の半谷静香(はんがい・しずか)選手です。

半谷選手が柔道を始めたのは、中学生の時。

お兄さんが所属していた柔道部に入り、稽古を始めました。

網膜色素変性症という病気により視覚に障害のある半谷選手は、組手で襟を取り合う際、その動作が見えません。とりあえず手を出はらわれてしまい、よく突き指をしていたそうです。それに、理不尽に振り回されることも多かったといいます。

それでも、めげることなく健常者の中で柔道を続けていました。

 

筑波技術大学に進学した半谷選手は、視覚障害者柔道に出会います。

視覚障害者柔道では、最初から組み合った状態で始めるため、それまで苦労していた組手への心配はなくなりましたが、一方で、相手との距離感や空間をどうやって作ったらよいのかという戸惑いは大きかったと話します。

相手のバランスを崩したいと思っても、お互いが力を入れている状態なので、それができない。背負い投げに入りたくても、手が固定されてしまうと空間がなくて自分の技に入れない。では、どうすればよいのか・・・

新たな壁は現れましたが、それでも、ただ理不尽に振り回されるだけだった時とは違い、どういう風に相手をずらすせばいいのか、どんな風に力をかけようかという「工夫」ができるようになったことで、「楽しみが増えた」といいます。

 

視覚障害者柔道を始めた2007年の全日本視覚障害者柔道大会では、初出場にして優勝を果たします。

しかし、この時、半谷選手の心を占めていたのは、優勝の嬉しさではなく葛藤でした。

「当時は普通の学校に通っていたこともあって、視覚障害があることを隠すことに一生懸命になっていました。『普通であること』『みんなと同じ』ということが、いつも目標にあったので、自分が障害者であることをみんなに知られることに戸惑いを感じました」

 

この全日本選手権での優勝により2008年の北京パラリンピックに日本代表として行くことが内定します。

ところが、半谷選手はそれまで国際大会の出場経験がなく、メディカルチェックによる障害の「クラス分け」を受けていなかったため、出場が取り消されてしました。

今では考えられないようなミス。

ショックは大きかったものの、そこから一歩一歩、国際大会で経験を積んでいきます。

2010年には「広州2010アジアパラ競技大会」や「IBSA柔道世界選手権大会」に出場し、世界選手権では7位入賞を果たしました。

 

その翌年、ロンドンパラリンピック出場を目指していた2011年。

東日本大震災により福島県の実家が被災します。

当時、大学4年生だった半谷選手は卒業を控えていましたが、就職先は決まっていませんでした。それでも、大学の寮を出なければならない、実家にも戻れないという状況で、行き場をなくしていました。

そんな時、手を差し伸べてくれたのが、1992年のバルセロナオリンピック・柔道男子95kg超級の銀メダリスト、小川直也さんでした。

神奈川県茅ヶ崎市にある小川道場で新しい生活を始めることになった半谷選手は、それまで以上に柔道に励みます。

恩人でもあり師でもある小川直也さんに言われた一言が今でも強く印象に残っているといいます。

「俺は一番を目指していても二番だったんだ。一番を目指すなら圧倒的な一番を目指さなければ一番にはなれない」

小川さんは、できるまでしっかり教えてくれたそうです。

それは、一番を目指す上で、諦めず根気強くやることについて考える時間になりました。

 

そうして、2012年、ロンドンパラリンピックの舞台に立った半谷選手。

経験したことのない歓声の大きさに驚き、「競技として私の試合を観てくれているこの人たちの前で、どういう試合ができるだろうという、ワクワクした気持ちもありましたが、完全に雰囲気にのまれてしまいました」と、当時を振り返りました。

パラリンピックという大会は、それほどまでに特別な空間なのです。

 

その4年後にはリオ2016パラリンピックに出場し、現在は、東京2020パラリンピック出場を目指す半谷選手。

次回は、仲元コーチとの絆、そして、先月開催された『東京国際視覚障害者柔道選手権大会2019』での戦いを振り返ります。どうぞお楽しみに!

 

半谷静香選手のリクエスト曲:みんながみんな英雄 / AI

練習に向かう電車の中や、試合の前に聴いている一曲。AIさんが出演したTEAM BEYOND のイベントで聴き好きになったそうです。