6月18日はサー・ポール・マッカートニーの誕生日〜あらためて振り返る「80年代の不遇」とその後の逆転劇

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1942年6月18日、リヴァプールのウォルトン病院で生を受けたサー・ポール・マッカートニー。彼は母メアリーを14歳のときに癌で失い、まるで喪失感を埋めるようにギター、そして作曲へとのめり込んでいったが、57年にジョン・レノンと運命的な出会いを果たし、62年にはビートルズの一員としてレコード・デビュー、ウィングスを経てソロ・アーティストとなった以降も第一線で活躍し続けている。そんなポールのキャリアは常に輝かしいものだったが、かつて進むべき道を見失いそうになった時期があった…。

1980年1月、ウィングスの日本公演はポールの大麻不法所持により幻となり、ウィングスもこの事件を経て自然消滅。極めて実験的な『マッカートニーⅡ』を放った後、ジョン・レノンが射殺されるという衝撃的な事件に打ちひしがれながらも82年には傑作『タッグ・オブ・ウォー』で英米1位をモノにし、自身の存在を再び世に知らしめる。一方、ビートルズの解散によりジョンと袂を分かったことで自身に新たな〈相棒〉を求めていたポールは、ウィングス時代のデニー・レインに続き元マインドベンダーズ〜10ccのエリック・スチュワートとの共作をスタート、このコンビは次作で当初2枚組の予定だった『タッグ・オブ・ウォー』の対となる83年のアルバム『パイプス・オブ・ピース』でも大きな成果を残している。さらには前作でのスティーヴィー・ワンダーに続きマイケル・ジャクソンとの共演も大きな話題となるなど、ポールの勢いはとどまることを知らなかった。しかし、84年になると企画、脚本から音楽、主演までを手掛けた映画『ヤア!ブロードストリート』が酷評され、興行的にも成功とはいい難い結果に終わってしまう。同名のアルバムは英1位/米21位を記録、傑作バラード「ひとりぼっちのロンリー・ナイト」も英2位/米6位を記録するなど音楽的には健闘したが、ヒュー・パジャムをプロデューサーに迎え制作された86年リリースの次作『プレス・トゥ・プレイ』は英8位ながら米は30位止まり。ポリスやスティングのソロ、ジェネシスやフィル・コリンズのソロで大きな成果を上げたヒュー・パジャムの音作りは同時代の彼が手がけた作品と比しても変わらぬクオリティを誇るものであったが、『プレス・トゥ・プレイ』が世間に広く理解されたとはいい難かった。ひたすらキャッチーなナンバー「プレス」や極上バラード「オンリー・ラヴ・リメインズ」をもってしても、その助けとはならなかったのである。

6月18日はサー・ポール・マッカートニーの誕生日〜あらためて振り返る「80年代の不遇」とその後の逆転劇
しかし、ポールは早速『プレス・トゥ・プレイ』に次ぐアルバムへとその力を傾け、新たな相棒としてエルヴィス・コステロと急接近する。ポールのデモを聴き「いいのもあったがダメなのもあった」と遠慮なく意見を放つエルヴィス・コステロの姿にポールはかつてのジョンを投影させたという。この共同作業を続けながら、フィル・ラモーンを新たなプロデューサーに迎えた新作のレコーディングは順調に進んでいく。

6月18日はサー・ポール・マッカートニーの誕生日〜あらためて振り返る「80年代の不遇」とその後の逆転劇
世間がビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』発売25周年で盛り上がる中、このアルバムには『リターン・トゥ・ペパーランド』の名が冠され、タイトル曲を始め「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のリメイク版、同じくビートルズ時代のナンバーに因んだ「P.S.ラヴ・ミー・ドゥ」、「アトランティック・オーシャン」、「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」、「ビューティフル・ナイト」、「ディス・ワン」、「ラヴ・ミックス」、エルヴィス・コステロとの共作「バック・オン・マイ・フィート」など全15曲がアルバム収録曲として用意されたという。しかし、セッションも中盤になるとポールとフィルはたびたび衝突、バンド・サウンドを求めるフィルと『プレス・トゥ・プレイ』同様に〈打ち込み〉のリズムにこだわるポールとの溝は埋まることはなく、最終的にフィルがスタジオから立ち去りアルバムは幻となった。『プレス・トゥ・プレイ』以降、世間から低迷していると思われていたポールはアルバム頓挫により再び浮上のチャンスを逸してしまうのである。

しかし、この時期に蒔いた種は確実に育ち、それは最終的にポールの原動力となっていく。エルヴィス・コステロとの歩みは〈ポール復活〉を世界に知らしめ、それまでの評価を見事に逆転させた89年の傑作『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の源となり、ジョージ・マーティンを迎え再録音された「ビューティフル・ナイト」は97年のこれまた傑作の『フレイミング・パイ』でのハイライトとなった。また、86年6月に出演した〈プリンシズ・トラスト・コンサート〉が大きな刺激となり、再びバンドへ情熱を傾けはじめたのもこの時期だ。これ以降、ポールの評価が揺らぐことはなく、現在も第一線で活躍を続けている。

しかし、ポールの熱心なファンは幻となった『リターン・トゥ・ペパーランド』のリリースを今も願っている。「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」はアルバムが流れた後〈落穂拾い〉的にリリースされた編集盤『オール・ザ・ベスト』に収められ、同曲のシングルにて「バック・オン・マイ・フィート」、さらには「ビューティフル・ナイト」のオリジナル・ヴァージョンや「ラヴ・ミックス」、「P.S.ラヴ・ミー・ドゥ」などもシングルや編集盤等に収められ日の目を見ている。しかし、その全貌を聴きたいという願いは叶わぬままだ。同じく80年代の不遇なアルバム『プレス・トゥ・プレイ』の再評価とともに、『リターン・トゥ・ペパーランド』を含めた80年代後半の総括はまだ終わっていないのである。

【著者】犬伏功(いぬぶし・いさお):67年大阪生まれ。音楽文筆家/グラフィック・デザイナー。60年代英国ポップ・ミュージックを中心に雑誌・ライナーノーツなど幅広く執筆、リイシュー監修等も積極的に行っている。地元大阪では音楽トークイベント『犬伏功のMusic Linernotes』も隔月開催している。
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