2019年8月

  • 2019年08月28日

    年金財政検証の報じ方

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    『年金水準 30年後は2割減』
    「厚労省試算 成長順調でも」

     これ、昨日の厚生労働省が出した公的年金の財政検証を扱った見出しではありません。実は、5年前の財政検証について報じた、2014年6月4日の朝日新聞東京最終版の1面記事の見出しです。

     では、今回の財政検証はどう報じられたのか?一般紙6紙すべてがこのニュースを一面トップで報じていましたが、たとえば毎日新聞。

    公的年金 財政検証 給付水準2割減』(8月28日 毎日新聞)
    <厚生労働省は27日、公的年金の給付水準の見通しを示す財政検証結果を公表した。年金の伸びを低く抑える今の措置を続けた場合、6通りの経済前提の中間的なケースでみると、現役男性の手取り収入と比べたモデル世帯の厚生年金の給付水準(所得代替率)は、2019年度の61・7%から28年後の47年度には50・8%まで低下。2割近く目減りする見通しが示された。>

     大見出しで減額幅を報じていて、これだけ見ると年金財政が急激に悪化し、それゆえ何と2割も支給額が減ってしまうかのような印象を与えます。が、こうして5年前と比較すると、ほぼ変わらずであることがわかります。ということは、5年前の想定からほぼ外れることなく財政状況が推移しているということになるのではないでしょうか。

     今後の日本の人口構成がどう変化するのか?日本経済がどう推移するのかはわかりません。それによって年金財政もいかようにも変わりますから、厚労省の試算もいくつものシナリオを想定して複数のパターンを出しています。


     もっとも厳しい想定は、日本経済も成長せず、女性や高齢者の労働参加も進まずという日本が徐々に衰退していくというもの。このシナリオでは年金積立金も枯渇してしまい、それでも給付をかなり切り詰めないと支給を続けることはできなくなります。これを見て、「年金は不安だ!」「政府は100年安心といったのに、ウソだったのか!」と批判が上がるわけですが、ちょっと待ってほしい(朝日風)。

     まず、年金は積み立て方式ではなく賦課方式ですから、「積立金の枯渇=年金財政の破綻」ではないということ。賦課方式とは、現役世代から徴収した保険料をそのまま年金を受給する高齢者に差し出す仕組みです。過去に年金財政が今よりも余裕があった頃にもっと堅実に余剰金を積み立てておけばもっと楽だったはずですが、たとえ積立金がなくなっても働く人が受給する高齢者よりも多ければ財政は安定します。一方で、働く人が少なくなればその分受給額を減らすか受給開始年齢を引き上げて調整しなくてはならなくなるわけですね。
    積立金が無くなったからといってすぐに年金制度そのものが立ち居か無くなるというわけではないということです。

     そしてもう一つ、こちらがより重要なのですが、試算のシナリオを左右する要素は現役世代の数と、日本経済がどれだけ成長できるかというところにかかってきます。現役世代の数というものは、今いる若年層の人口分布である程度把握できますから、あとは労働市場に出てきていない女性や高齢者をどうやって現役世代に組み込んでいけるかにかかってきます。すでにかなりの数が労働市場に参加していますから、ここから劇的に数字を伸ばせるわけではないでしょう。
     一方で日本経済が今後どう成長していけるかというのは、今後の政策次第です。そこで問題となるのが、10月に控える消費税の増税。個人消費を確実に冷え込ませるであろうこの大増税は、日本経済を冷え込ませることはあっても暖めることはありません。
     この年金の問題で「100年安心じゃなかったのか!」と批判する一方で、消費増税を社会保障の安定のためと推し進めるのは実は矛盾しているのです。だって、社会保障の根幹をなす年金の財政を痛める消費増税を、社会保障の安定のためと言って推し進めているわけですから。その上、新聞は軽減税率を適用されて増税の痛みは回避してしまうわけですから、ダブルスタンダード、トリプルスタンダードの謗りは免れないと思います。

     年金の問題は各々の人生に直結することは論を待ちません。筋を通した議論を期待したいところです。
  • 2019年08月23日

    報じる立ち位置は向こう側?

     韓国が軍事情報秘密保持協定(GSOMIA)の破棄を日本側に通告してきました。
     これ、即座に終わるわけではないんですが、正式に通告があった以上、11月をもって、協定は終わることになります。
     この一報があったのが昨日木曜の夕方。そこから取材したのですが、メディア報道の過熱ぶりとは対照的に、政府関係者の受け止めは非常に冷静でした。まず、戦後の日韓関係においても、あるいは1965年の国交正常化からの50年あまりにおいても、秘密保持協定なしでも安全保障環境は不十分ながらも機能してきたということ。情報面では実は韓国から日本が受けとる情報以上に、日本から韓国が受けとる情報の方が有用なものも多く、メリット・デメリットの見合いで考えれば韓国側にデメリットが大きいのではないかという指摘が大半でした。
     しかしながら、国内の報道は不思議なぐらいに韓国側の目線に立ったものばかり。
    「徴用工問題に端を発して、輸出厳格化、ついに安全保障の分野にまで及んでしまった!」 
    「日本政府が頑ななせいで韓国を追い込んでしまった!」
     事実とは異なるこうした報道に溢れています。
     拙ブログでも指摘し、夕刊フジの連載コラムでも書きましたが、輸出管理の見直しはそもそも大量破壊兵器への転用可能な物資の管理が不十分なのではないかというのがその理由であって、朝鮮半島出身労働者の賠償問題への報復などではありません。日本政府が頑なというか、国際法上の原理原則を遵守しているのであって、ここを崩してしまっては他の国々と信義を結べなくなってしまうでしょう。 

     ことほど左様に、日韓関係のニュースは基本的に日本側が悪いかのように書かれることが多くて驚きます。先日も、韓国のフラッグキャリア、大韓航空が日本の地方空港発着便を中心に大幅減便したことが話題になりました。

    <大韓航空は20日、日韓関係の悪化で韓国と日本を結ぶ便の利用者が減少しているとして、主力路線の釜山―関西の運航を休止するなど、大幅な見直しに踏みきると発表した。代わりに東南アジアや中国などとの路線を拡充するという。>

     報じる記事はどこを見ても、昨今の日韓関係の冷え込みが理由になっています。
     日韓関係の冷え込みで訪日韓国人の数が減ったのは理由の一つではあるでしょう。しかしながら、航空会社は飛行機を飛ばしてナンボ。飛ばさず飛行機を遊ばせていては維持費や駐機にかかる費用、人件費などなど、コストばかりがかさんでしまいます。国営企業ならいざ知らず、民間企業で営利企業たる大韓航空が、国と国との関係が冷え込んだからといってコストがいたずらに嵩むような決断をおいそれと下すでしょうか?
     よくよく調べてみますと、今回の決断の別の側面が見えてきます。

    <韓国航空大手の大韓航空は15日、2018年1~3月期の連結決算を発表した。航空需要の回復で売上高は3兆1020億ウォン(約3100億円)と前年同期比8%増えたが、外国為替のウォン安進行や人件費の増加で営業利益(1663億ウォン)は13%の減益だった。同社は当初14日としていた決算発表を15日に延期。不祥事が相次ぐ創業家トップの対応に注目が集まったが、言及はなかった。>

     ご覧の通り、そもそも様々な国内スキャンダルや燃油コストの高止まりで大韓航空の経営は厳しかったんですね。
     韓国の航空業界はLCC(格安航空会社)が乱立した影響で、フルサービスキャリアの大韓航空とアシアナ航空にとって厳しい環境が続いてきました。アシアナ航空など、親会社の錦湖アシアナ財閥が赤字に耐えかねて、アシアナ航空を売りに出すといったニュースまで流れています。

    <錦湖(クムホ)アシアナグループを構成するアシアナ航空筆頭株主の錦湖産業は、4月15日に取締役会を開催し、アシアナ航空の売却を決議したと発表した。同社はアシアナ航空の約33%の株式を有する筆頭株主のグループ企業。同グループから離脱することで、韓国経済界では早くもアシアナを傘下に収める企業グループの動向に注目が集まっている。>

     こうした厳しい経営環境にあっても、一度定期便を飛ばし始めた路線から撤退するのはそう簡単なことではありません。特に地方空港路線の場合、地元自治体や経済界からの期待や補助金などが絡んで利害関係が複雑に入り組んでいたりします。平時に断行しようとすると多大な労力が必要となるわけです。そこへ降って湧いた日韓関係の冷え込み。これは路線撤退の格好の理由となるわけですね。待ってましたとばかりに飛び付き、路線撤退を発表したというのが今回のニュースというわけです。

     少し調べればわかるはずなのですが、紙幅の関係なのか、ここまで言及している記事はあまり見かけません。基本的に、日韓関係の悪化、それも日本を原因に置いた関係悪化の作用の一つとして今回の減便が扱われています。そうまでして韓国側の主張に乗っかり、日本政府を批判したいのでしょうか?
     たしかに権力を監視するというのはマスコミの役割の一つなのかもしれませんが、ここまで来ると権力監視というか権力批判が目的となってしまって、事実を伝えて世論を喚起するという役割を半ば放棄してしまっているのではないかとさえ思います。
     その先に待っているのは、メディア不信。自分で自分の首を絞めているようにも見えるのですが...。
  • 2019年08月16日

    8月15日と、その後

     先の大戦が終わって74年となった昨日8月15日、令和となって初となる全国戦没者追悼式が日本武道館で行われました。
     
    <74回目の終戦の日を迎えた15日、令和で初めてとなる政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれた。天皇、皇后両陛下のご臨席のもと、安倍晋三首相や全国各地の遺族ら計約7千人(付き添い含む)が参列。先の大戦で犠牲となった軍人・軍属約230万人、一般国民約80万人の計約310万人の冥福を祈り、平和への誓いを新たにした。>

     日本ではこの日に戦争が終わったとされていて、先の大戦に思いを馳せ不戦の誓いを新たにする日と受け止められていますが、国際法上戦争が終わったのはこの日ではないと指摘する向きもあります。連合国が発出したポツダム宣言を、日本政府は前日の14日に受託刷する旨通告、15日はその事実を広く国民向けに知らせた日でありました。
     翌16日には即時戦闘行動の停止を命令しましたが、その命令には但し書きで「自衛のための戦闘行動は之を妨げず」とあり、実際には15日以降も局地的な戦闘は続いていたわけです。その後、9月2日、戦艦ミズーリ艦上で日本政府を代表して重光葵、大本営を代表して梅津美治郎がそれぞれ降伏文書に署名しました。国際法上は、この9月2日が連合国にとっての対日戦勝記念日、日本にとっての敗戦の日となるわけです。
     8月15日から9月2日までの間は、現在の日本の領域とされる範囲では武装解除が行われ、ほぼ平穏に占領体制への移行が進んでいきましたが、他方「外地」と形容された朝鮮半島、満州(中国東北部)、東南アジア、南洋諸島各地ではここから過酷な引き上げが始まり、多くの同胞が命を落としたこともまた、我々は心に刻まなければならない辛い歴史のひとつでありましょう。そして、その一つが、千島列島、北千島の占守島、幌筵島でした。
     
     先日根室を取材した際、北方領土の戦後の経緯や住民の暮らし、戦後の返還要求運動の変遷を紹介する北方館の小田嶋館長にもお話を伺いました。その中で千島列島の終戦直後の歴史もジオラマなどを使いながら詳しく説明してくださいました。
     占守島には終戦当時、満州から転属した精鋭戦車部隊である戦車第11連隊などがおり、隣の幌筵島には第91師団主力が配置されていました。想定された敵軍はアメリカ軍。アラスカ方面やベーリング海から上陸してくるであろうことを想定していたのです。終戦の玉音放送とそれに続く戦闘停止命令を受け、終戦作業に当たっていた現地の日本軍は、当然アメリカ軍が武装解除に来るのだろうと考えていました。
     ところが、そこへ現れたのはソ連軍。どうしてアメリカではなくソ連だったのか?戦後随分たってから発覚したのですが、ヤルタ秘密協定によってソ連は対日参戦の見返りに千島列島を得る約束でした。ところが、日本軍の降伏受け入れ分担ではそこが明確になっておらず、降伏文書調印までの間に勢力下にあるという既成事実を作るためにスターリンが軍を進めたと言われています。

     占守にいた日本軍は、北方での戦闘がほとんどなかったために弾薬・糧食ともに比較的豊富にありました。その上、この夏の季節は缶詰工場が操業中。女子工員400~500人を含む漁業関係者など、2千人規模の民間人が島内に留まっていました。上陸し、蹂躙しようとしたソ連軍に対し、自己防衛と民間人防衛のためにも、日本軍はやむ無く再び銃をとったのです。
     数の上ではソ連軍の方が圧倒的に有利でした。が、多数の戦死者を出しながらも押し返し、要地を奪還したところで一旦進撃を止め、停戦に向けて使者を差し向けます。なぜなら、自己防衛のための必要最低限の反撃以上は認められていなかったからです。そして、降伏、武装解除。2万を越す兵力だった91師団のうち、実際に戦闘に参加したのは8千人強でした。
     その後ソ連軍は千島列島を南下しつつ日本軍を次々と武装解除していきました。それとともに、千島列島にソ連各地からソ連人を移住させていきます。千島で暮らしていた日本の民間人はしばらくの間ソ連人とともに暮らしていましたが、2年後の1947年、日本への帰国を希望する日本人は樺太経由で北海道へと帰還しました。戦後の千島での暮らしは厳しく、栄養状態も悪く、北海道につくまでに命を落とした方もいたということです。

     では、武装解除された軍人たちはどうなったのか?そのまま日本に帰れたわけではありませんでした。ソ連は目的も告げぬまま旧日本兵たちを船に乗せ、使役労働するためにシベリアに連れていきました。シベリア抑留です。また、占守に散った日本兵の亡骸は弔われることもなく、そのまま千島の土に還っていきました。南方や硫黄島での遺骨収集がニュースになることがありますが、千島や樺太にも取り残されたご遺骨がまだそのままになっています。戦闘があったのですからそうなのですが、小田島館長にそう言われたときに、私は衝撃を受けました。戦後74年、ここでもまだ戦後は終わっていないのです。現在は、ロシアの団体が遺骨収拾を行っています。

    <ロシア・サハリンや千島列島北東端のシュムシュ島(占守島)で、第2次大戦で犠牲になった旧日本兵や旧ソ連兵の遺骨を現地の団体「ロシア探索運動」が収集している。厚生労働省によると、同団体は日本人とみられる遺骨49柱を返還した。サハリン支部長のアルチョム・バンドゥーラさん(37)は「祖国に遺骨を返したいとの思いで活動している」と語る。>

    また、来月には占守島で慰霊祭も企画されているようです。
    <1945年(昭和20年)8月の終戦直後、千島列島北東端のシュムシュ島(占守島)で旧ソ連軍と激闘を繰り広げた旧日本軍守備隊の遺族や関係者が9日、「占守島戦没者追悼慰霊の会」を設立した。戦闘が始まった8月18日に毎年、札幌市内で慰霊祭を開くほか、今年9月には現地への慰霊の旅を予定。若い世代などの参加者を募っている。>

     8月15日を境に戦中と戦後がくっきりと別れたわけでもなく、日本人すべてに平和な世の中が訪れたわけでもありません。終戦の日に思いを致すとき、その日以降に幾多の苦難に向き合った同胞がいたこともまた、忘れてはならない事実であろうと思いました。
  • 2019年08月09日

    根室海峡取材記

     先週金曜日の放送後から土・日と、北海道根室市に取材で出張しました。北方領土のニュースが流れるといろいろな動きは報じられますが、そこに関わる人々がどんな思いでいるのかは東京ではあまり報じられません。そこで、特にこの北方領土と接する海に関わる人々の話を伺おうと思ったのです。洋上からの北方領土視察を含め、今回の取材はずいぶん前から海上保安庁本庁や北海道を担任する第一管区海上保安本部、地元の根室海上保安部と詰めていたのですが、出張当日、北方領土に関連してこんなニュースも飛び込んできました。

    <ロシアのメドベージェフ首相は2日、ロシアが実効支配する北方領土・択捉島を訪れた。メドベージェフ氏の北方領土訪問は4回目で、2015年8月以来4年ぶり。「北方領土は第二次大戦後にロシア領になった」とするロシアの主張を誇示する狙いがあるとみられる。>
            
    当然、日本政府は即座に抗議しています。
    <ロシアのメドベージェフ首相が北方領土の択捉島を訪問したことを受け、日本政府は2日、外交ルートを通じて強く抗議した。河野太郎外相は「日本国民の感情を傷つけるもので、極めて遺憾だ」と非難する談話を発表。領土問題をめぐりロシア側が譲歩しない姿勢を改めて示したことで、安倍晋三首相が取り組む平和条約締結交渉はさらに困難さを増しそうだ。>

     そんな緊張感もはらみながらも、今回順調に取材をすることができました。言うまでもなく北方領土は、日本の領土でありながら、先の大戦後ロシア(当時はソ連)に不法占拠されている島々で、択捉・国後・色丹・歯舞群島からなる。不法占拠はすでに74年におよんでいます。

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     今回乗船したのは、巡視船さろま。この北方領土周辺海域を担当する根室海上保安部には、このさろまをはじめとして支所と合わせ7隻の巡視船が配置されています。24時間・365日いずれかの船がこの海域をパトロールをしているそうです。今回、実際に船に乗せてもらって取材をしたのですが、10人前後の乗組員たちが操船から、何かあれば捜索活動、警察権の行使、さらに日々の生活にまつわる食事の準備などなど、一人何役もこなしていました。
     また、対峙するロシアの国境警備隊の船脚が速いことから、ここには高速船が配備されています。それでも、近年の予算逼迫、緊縮財政の折、海保の予算も大盤振る舞いとはいかず、このさろまも平成元年の就役。平成から令和と時代を跨いで北の海を守ってきました。30年以上の年月が経てば、ロシア側は当然新しい船を入れてきます。もちろんこちらもメンテナンスを万全にして対処するわけですが、現場に負担がかかっている現状は否めません。航行に関わる部分は設備更新がされていますが、電気調理機のように居住性に関わる部分は新造時から30年以上使い続けているものもあります。

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    野付半島沖から国後島を望む

     根室港から船を出すと、目の前には国後島が東西に横たわっています。"島"と一言で言いますが、国後島が沖縄本島の1.2倍、択捉島に至っては2.4倍という、日本最大の島でもあるのです。爺々(ちゃちゃ)岳や羅臼山といった国後島の山々は、晴れて空気が澄めば根室市内からもはっきりと見ることができます。

     それらを見ながら東に船を進めること30分あまり、歯舞群島に近づくと、いわゆる中間線が南に降りて来ます。西に納沙布岬、東に歯舞群島貝殻島を望む珸瑤瑁(ゴヨウマイ)水道です。貝殻島には昭和12年に当時の逓信省が建てた灯台があり、納沙布岬とこの貝殻島灯台の間は3.7キロしかない。まさに手の届くような近さです。その南にあるモエモシリ島、秋勇留島、勇留島、東にある水晶島なども非常に近いのです。

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    珸瑤瑁水道から貝殻島灯台を望む

     そして、この3.7キロの中間に、いわゆる中間ラインが引かれていて、ここから歯舞群島側に日本の船が行くと拿捕の危険が高まります。一方で、この辺りの海域は非常に豊かな漁場でもあり、歴史的にも日本の漁師たちが魚を獲ってきた海域でもある。過去にはロシアの国境警備隊による日本漁船の拿捕、船員の拘束、船舶の没収も相次いだ海域です。拿捕や拘束のみならず、ロシアの国境警備隊からの銃撃で日本人が命を落としたという事件もありました。(吉進丸事件)遠い過去の話ではありません。今からわずか13年前、2006年の出来事です。ことほど左様に、「一歩間違えば」という緊張感を孕む海なのです。

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    北方館の前で小田嶋館長にインタビューする筆者

     さて、この珸瑤瑁水道を望む納沙布岬には、北方領土の早期復帰を願う様々なモニュメントや、島での暮らしや今までの運動の足跡をたどることができる施設があります。その一つ、北方館の小田嶋館長に、北方領土を望みながら話を伺うと、歴史的にソ連、ロシアと地元の漁業者が対峙してきたことを紹介した上で、海上保安庁の船がいる安心感を話してくださいました。
     海保はこの海域を含め、被拿捕防止と不測の事態の防止、起きてしまったときには極小化に努めています。乗船した巡視船さろまに勤務する海保職員に聞くと、
    「自分達は特別なことはなにもしていない。日々求められる任務を確実に行うことで、漁業者の方々が安心して漁をできれば」
    と話してくれました。一見平和に見えるこの海は、そうした日々の地道な安全指導で維持されているのだ

     現在は、春先と秋にこの貝殻島灯台周辺で行う昆布漁と、安全操業という2つのスキームのみ、入漁料を支払った上で協定で決められた量に限って、北方領土周辺で日本の漁船が操業できます。根室市花咲港の野坂さんに話を聞くと、固有の領土、領海での漁業でありながら、残念ながらそこには様々な窮屈さがあると明かしてくれました。

     貝殻島灯台付近で行われる昆布漁は、前述の通り入漁料を払って許可を得た船が許可を得た量、許可を得た時間に限って操業できる仕組みです。その時間はさほど長くはありません。漁業者からすれば、到着したら即座に漁を開始し、上限ギリギリまで漁をしようとします。ところが、ロシアの国境警備隊は日本の漁船(といっても昆布漁に使う船は小船のようなものですが)の周りをぐるぐると廻り、場合によっては漁船に声をかけて船内検査を始めたり、書類の提示を要求したりするようです。時間が決められているだけに、こうしたことが起こると必然的に漁をする時間が削られていきます。固有の領土、固有の領海のはずが、やはり現場では様々なプレッシャーにさらされながら操業しているようです。

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    コンブ漁船。協定により、船の色まで指定されている(歯舞漁港)

     それでも漁に出るのは、それが自分達の暮らしのみならず地元経済を支えているから。減ったとはいえ、根室市の漁業は水揚げ高だけでも200億円規模。周辺の加工業なども合わせるとその倍にものぼる一大産業です。

     領土問題という大きなテーマの前に、関係する現場の方々は、この海が平和な海であるよう願い、そしてそれが保たれるように地道な努力を懸命に重ねていました。北方館の小田嶋館長のスーツの襟元には、ベージュがかったブラウンのリボン型のバッジがありました。拉致問題のブルーリボンバッジの色違いです。


     「人の拉致」に対し北方領土問題は「土地の拉致」として、主権と尊厳を侵されている2つの大きな国際問題であるとの関心を相乗効果的に持ってもらいたいという願いが込められています。何よりも、我々日本国民が関心を持ち続けること。拉致問題もそうですが、それが、問題解決の後押しになり、この海を平和ならしめることなのだと思いました。

    なお、この模様はCAMPFIREファンクラブ「飯田浩司そこまで言うか!ONLINE」のミーティングで映像交えてレポートします。有料会員制ですが、ご興味あるかたはぜひお申込みください。
書籍
プロフィール

飯田浩司(いいだ・こうじ)

1981年12月5日生まれ。
神奈川県横須賀市出身。O型。
2004年、横浜国立大学経営学部国際経営学科卒業。
現在、ニッポン放送アナウンサー。
ニュース番組のパーソナリティとして政治経済から国際問題まで取材活動を行い、ラジオでは「議論は戦わせるものではなく、深めるもの」をモットーに情報発信をしている。
趣味は野球観戦(阪神タイガースファン)、鉄道・飛行機鑑賞、競馬、読書。

■出演番組
≪現在≫
「飯田浩司のOK!COZY UP!」

≪過去≫
「ザ・ボイス そこまで言うか」
「辛坊治郎ズーム そこまで言うか」

■Twitter
「飯田浩司そこまで言うか!」

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