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2005年7月2日(土曜)瀬田編 先週の二子玉川から、ぶらぶら瀬田へ歩いてきました。 玉川通り(国道246号)と環状8号線が交差する 渋滞で有名な瀬田の交差点。 ここからちょっと南へ入ると小高い丘があります。 実はここ、戦国時代には、小田原・北条氏の家臣、 長崎氏の本拠地「瀬田城」という城があったそうです。 江戸時代以降は、行善寺という浄土宗のお寺になっていて、 多摩川を一望できる眺望の地として有名になります。 将軍家には、特に好む人が多く、 11代家斉・13代家定は、よくこの地を訪れたといいます。 冒頭の画像、実はこのお寺の境内から現在の眺望。 二子玉川駅とは行善寺坂でつながっています。 ◆塚越アナ・山本さん瀬田を歩く さて、しばらく歩いた瀬田5丁目の「吉村造園」さんには、 知る人ぞ知る「水琴窟(すいきんくつ)」があります。 「水琴窟」とは、江戸初期の大名茶人・小堀遠州(こぼり・えんしゅう)が 考え出したもので、蹲踞(つくばい)の余り水の排水装置を元に、 茶室の入口などに作られた、日本ならではのものです。 元来「つくばい」は、茶室に入る前に手を清め、 口をすすぐためのものでしたが、時代が下るにつれて形式化、 今ではあまり実用的な意味はなくなっています。 「水琴窟」の名前の由来は分かっていませんが、 手を洗った水がカメに落ちて反響する音色が、 琴に似ていることにちなんで、江戸時代の庭師が名づけたとか。 江戸時代から明治、大正、昭和の初期にかけては、まだまだ 音を楽しむことが「風流」と捉えられてきたゆったりとした時代。 高度な造園技術として、全国で盛んに作られました。 しかし、第2次大戦の激化に伴って作られなくなり、 戦後「水琴窟」はすっかり忘れられた存在になっていたんですね。 一説によれば、昭和34年に全国で確認できた「水琴窟」は、 わずか2つだったといいます。 この事態に、東京農大の研究室が地道に「水琴窟」を研究、 昭和60年以降、各メディアで取り上げられたことをキッカケに、 静かなブームになって今に至ります。 ◆吉村造園・吉村和子さんインタビュー 「水琴窟」がある、吉村造園の奥様・吉村和子さんに伺いますと、 「キーン、キーン」と聞こえてくる音は、実際には少し小さいので、 「マイク」で集音しているそうです。 吉村造園の辺りは、交通量が多く、騒音も大きい場所。 このため「水琴窟」の音を聞こえやすくするように、 「水琴窟」自体にマイクを仕込んで、聞こえるようにしているそうです。 ただ、一見した限りではドコに「マイク」や「スピーカー」があるのか 分からないもの…。そこは、さすが造園業!ですね。 さて、お話を伺った和子さんは、 昭和24年に目黒からこの瀬田に嫁いできた方。 当時の瀬田は、まだまだ田舎で「イタチ」も出没していたといいます。 ちなみに「水琴窟」、安く作れば「70〜80万円」。 高く作ろうと思えば、無限大にいくらでも出来るそうです。 「水琴窟」…今世紀もぜひ受け継ぎたい、日本の「音風景」ですね。 ◆「水琴窟」の音 ※「吉村造園」ホームページ http://www.yoshimura-zouen.co.jp/ |
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