8月15日(水)

『終戦記念日に思いを寄せるリスナーからのメール』

横浜市の77歳の奥様、岡本米(よね)さんからいただいたメールをご紹介します。

毎年、終戦記念日が来ると、私の心を何度となくよぎっていくことがあります。それは亡き兄のことです。兄は母の期待にこたえる自慢の息子でした。スポーツ万能で、水泳、ボクシング、特に柔道は、得意中の得意でした。大会があるたびに、箱の中が、優勝メダルで埋まっていきました。中学生の時は、全国大会で優勝し、天皇杯もいただきました。大学は、推薦で、日本大学に入り、就職は、自動車会社に決まりました。やがて、第二次世界大戦が始まり、兄にも召集令状が届き、甲種合格で陸軍に入隊する運びになりました。兄は幹部候補生で、宇都宮の駐屯地に配置されました。昭和20年になって、兄から、面会できるという知らせがあり、母と私は大喜びで出かけて行きました。軍服姿の兄は、とても凛々しく見えました。兄はそのとき、すでに覚悟を決めていたのでしょう…、私たちを笑顔で迎えてくれました。でも、いつもと違う表情に気づいた母が「どうして、会えたの?」と聞くと、2、3日中にフィリピンに行く命令が出ると言うのです。なぜ、フィリピンに行く事になったのか、わけを聞くと、些細な事を理由に、上官がみんなの面前で兄を往復ビンタしたというのです。兄は、日頃から、その上官に対して、我慢していましたが、とうとう、その日、我慢しきれず、投げ飛ばしてしまったそうです。この話が隊長に伝わり、そんな強いのなら、敵をやっつけて来いと言われ、激戦地のフィリッピンへ送られることになってしまったと言うのです。その話を聞いた母は、「よくやったねぇ」と兄を褒めてあげました。口には出しませんでしたが、兄は。母と会えるのはこれが最後と思っていたのでしょう。母を心配させないように笑いながら、たわいない話をして、その日は別れました。あのときの母と兄の姿は、いまでも私の脳裏に焼きついています。それから1ヵ月後、昭和20年7月1日のことです。役場の人が桐の箱を持って家を訪ねてきました。
「名誉の戦死です。最後まで戦って玉砕したそうです」
母は、深々と頭を下げながら、「ありがとうございました」と言っていました。私は、その人に「兄はどのような死に方をしたのですか?」と聞くと、「玉砕なので、誰が誰だか分からない状態でした」という事でした。私は、あふれる涙を抑えることが出来ませんでした。それから1ヵ月半後、終戦を迎えました。あと2ヶ月、終戦が早く来ていれば、兄は死ぬこともなかったのに。毎年、8月15日が来るたびに、25歳でこの世を去った、兄の優しい笑顔が蘇ります。