8月1日(水)

『プロのストリートミュージシャン・サックス奏者中村健佐さん』

毎週金曜日の夜8時ごろ、品川駅港南口を歩いていると、どこからか、サックスの音色が聞こえてきます。その音がするほうへ歩いていくと、会社帰りのサラリーマン、OLの人だかりができています。中を覗き込むと、黒いシャツに黒いスラックスのいでたちで、ちょっと長めの髪の男性が、年季の入ったサックスを吹いています。その人が、プロ・ストリートミュージシャン、中村健佐(けんすけ)です。青山学院大学機会工学科卒業、本田技研に入社。27歳でサックスを始め、40歳で本田技研を退職してプロ・ストリートミュージシャンになります。
中村さんの両親は声楽家で、父、中村健(たけし)さんは著名なテノール歌手でいらっしゃいます。父親の口癖は「日本で、音楽で食べていくのは、大変なことだ」。こどものころから、そんな話を聞いていたので音楽よりも小学生の頃はプラモデル。中学生の時はラジコン。高校ではオートバイに夢中になります。大学は機械科に進み、オートバイのエンジンを開発したいという夢を持ってホンダへ入社します。ところが配属になったのは宇都宮の研究所で、自動車のエンジンの開発を担当することになります。いつも渋谷で遊んでいた学生時代と比べて、宇都宮での生活は、アパートと研究所を往復する毎日でした。「これじゃいかん、何か趣味を始めないと」。そんな時、友人が、質屋から中古のサックスを買ってきます。鬼怒川の河原に行って、試しに吹いたら、プー、プーと音が出た。「もし、あの時、音が出なかったら、サックスはやっていなかったと思う」、と中村さんは言います。すぐに、会社の軽音楽部に入り、3ヵ月後には、ライブハウスのステージに立ち、ビリージョエルの「素顔のままで」を吹いていたそうです。そのころは、まだアマチュアですから、誰が聞こうと関係ない。自己満足の世界に浸っていました。30代になると、週末、東京に出て、銀座の路上に吹くようになります。そのころになると、立ち止まって聞いてくれる人が出てくるようになります。中には、涙を流す人もいるんですね。(なんで、自分の演奏に、涙を流すのだろう?)と、思いながら、吹いていたそうです。本業の「技術屋」として誇りを持っていた中村さんは、いくつも、特許を取るほど、エンジンの開発に情熱を傾けてきました。しかし、40歳を前にして、管理職の道も、これから考えていかなければなりません。仕事も増え、趣味のサックスを吹く時間もなくなっていきます。(このままでは好きな音楽をやめることになる)
仕事と趣味を両立させるため、職場の宇都宮と東京を往復する生活が始まります。そんなハードな生活に、体が悲鳴をあげ、体を壊して入院。ベッドに横たわって、今後の自分の身の振り方を考えました。以前、父に相談した時、「そんな甘い世界じゃない。自分の腕だけで食べていけるのは、一握りだけだ」と言われました。両親が音楽家だけに、その世界が、どれだけ厳しいか、中村さん自身もよく分かっていました。でも、涙を流して聞いてくれた人のことが、忘れられません。もしかしたら、今夜も、自分の演奏を待っている人がいるかもしれない。そう思うと、自分の気持ちは、1つしかありませんでした。父に「会社をやめようと思う」と電話をすると、意外な答えが返ってきました。
「お前のCD、聞いたよ。いいじないか。もしかしたら、やっていけるかもな」と励ましてくれました。父が、自分のCDを手に入れて聞いてくれていた。それが、とってもうれしかったと中村さんは言います。そして5年前、40歳で会社を辞めて、路上でサックスを演奏し、CDを売るプロのストリートミュージシャンとして、歩き始めました。一晩に聞いてくれるか。「芸術を売って、糧を得る」、そのCDが驚異的な売れ行きなんですね。路上で4万枚もCDを売り上げています。中村さんのサックスの音色に注目した音楽関係者が、メジャーデビューしないかと、声を掛けてきたことがありました。しかし、中村さんは、はっきり断りました。「メジャーになろうと言う意識はありません。ストリートが、僕の活動基盤ですから。僕のサックスを聞きに来てくれる人がいる限り、僕は、ストリートミュージシャンをやって行きます」

●中村健佐さんの情報
3枚目の最新アルバム『アイビリーブユー』が発売中。
8月5日(今週日曜日)、浜離宮朝日ホールで中村健佐サックスコンサートが午後2時と5時30分の2回開かれます。
お問い合わせは、KCミュージック、東京03・3877・8519