7月31日(火)

『絵はコミュニケーション』

「よそのねこ」という一枚の絵があります。
黄色いシマのトラネコが、4本の太〜い足で原っぱを踏みしめて、ど〜んと立っている堂々とした絵です。空は一面の茜色・・・。この絵は、田中瑞木さんが12歳のときに通い始めた絵画教室で、初めて描いた油絵の作品です。
母親の愛子さんは、この絵を一目見て涙が止まりませんでした。近所の画材屋さんで見つけた「絵画教室生徒募集」の貼り紙。生まれつき知的障害を持っていた瑞木さん。
駆けっこも自転車も大好きなのに、言葉でコミュニケーションを取ることができない。パニックになると騒ぐ。暴れる。泣きじゃくる。
(普通の子と同じことが、一つでも多くできますよう    に・・・)
愛子さんは瑞木さんを連れて、心ない人たちの視線に耐えながら、診療所、研究所、保育園、ピアノ教室、いろんな所を回りました。すばらしい先生たちとの出会いで、それなりの成長は見られても、やっぱり障害児であることには変わりありません。
(どうして自分は、こういう子を授かってしまったのか?)
(育て方に何か、問題があったんだろうか?)
考えれば考えるほど、自分を追い詰めるだけでした。
そしてとうとう愛子さんは、うつ病を発症してしまいます。
障害を持った子のある母親が言いました。
「いくらがんばってもね、普通の子には追いつけないことが、ある時、分かるのよ・・・」
障害があることを、まず受け入れることの大切さなど、
まだまだ理解できない愛子さんは、うつの中に沈み込むだけでした。そこから救い出してくれたのがこの絵「よそのねこ」だったのです。

言葉の不足な瑞木さんに代わり、その絵は精一杯、訴えていました。
「まま、わたしは、ネコが、だ〜いすきなの」
「このネコみたいに、わたしは、しっかり立ってるのよ、ホ ラ!」
愛子さんは、あふれる涙を何度もぬぐいながら、思いました。
「ほかの子と同じでなくたっていい。こんな絵が描けるんだ から・・・」

もともとグリーンだけが大好きだった瑞木さんに、好みの色の変化が表れました。ピンク、赤、オレンジ、黄色など暖色系が増えたのです。
「自転車にのったねこ」「もみじ山のねこ」「はらっぱのねこ」対象も「ねこ」だけでなく、どんどん広がっていきます。「うさぎ」「きりん」「やぎ」・・・「ひまわり」「カーネーション」「おひなさま」「おとうと」「かぞく」。
ピンクとブルーのレオタードの女の子が並んだ「バレエ」という作品は「踊ってみたい気持ちが、のびのびと表れている」とほめられました。
やがて、瑞木さんの作品は、全国的な美術展で賞を取るようになります。
(自由闊達な構図)(明るい色彩)(心の忘れ物を発見したような驚き)
感想は様々ですが、愛子さんはその絵の魅力の秘密を知っています。
「瑞木の絵は、評価されることを期待していません。
 子どもの頃そのままの無心な気持ちで描いているんです」
これまでに開いた個展は14回。瑞木さんは今年、34歳になりました。

愛子さんたち3人の障害児の母親が始めたグループホームに住み込み、去年から、高齢者の家事をサポートするスタッフとして働いている瑞木さん。一ヶ月の収入は、およそ2万円。でも笑顔が絶えません。
毎週末、家に帰ってきて絵筆を握るのが、何よりの楽しみです。自宅近くのマンションの一室で、今年3月からオープンしたのは、『田中瑞木 美術館』!
心を和ませ、大切な何かを想い出させてくれる作品が並んでいます。

8年前、瑞木さんをグループホームに送り出した母親の愛子さんは、寂しさに耐えながら(私も娘から巣立たなければ)と決心します。3ヶ月間、猛勉強をした愛子さんは、大学院の心理学科に入学。わが子よりも若い学生と机を並べる51歳の新入生でした。今は、臨床心理士として、障害児を持つ母親たちのカウンセリングに当たる毎日を送っています。愛子さんは、言います。
「苦しみも歓びも、いろんなことを教えてくれた娘に、
 ありがとう」

愛子さんと瑞木さんの本「絵はコミュニケーション」は、
燦葉(さんよう)出版社から出ています。