7月18日(水)

『「下工弁慶号」復活へのちょっといい話。』

両国の江戸東京博物館で、いま開催中の『大鉄道博覧会』でひときわ目を引くのが、明治40年(1907年)に東京の石川島造船所(現在の石川島播磨重工業)で製造された『下工弁慶号』(くだこう・べんけいごう)。いまも動くSLの中で、最も古く、今年100歳を迎えます。東京の石川島で作られた後、山口県徳山市で、帝国海軍の艦艇の燃料で使われる石炭の輸送に使われていました。昭和9年、海軍から山口県の下松市(くだまつし)の下松工業学校(現在の下松工業高校)へ、原動機実習機材として、提供されます。下松工業高校の弁慶号だから、「下工弁慶号」と名づけられました。今回の「大鉄道博覧会」には、100年ぶりの里帰りなんですね。昭和26年を最後にスクラップになるところ、卒業生たちから「下工名物の1つ、ぜひ、保存して欲しい」と声が上がり、正門脇に、展示されるようになりました。風雨にさらされて、車体はサビついてガタガタ、石炭を燃やす燃焼室には、子どもが、土が入れて、雑草が生えていました。もう2度と動かない明治生まれのSLが、なぜ動くようになったのか。ここに「ちょっといい話」があったんです。昭和54年8月1日、山口県の山口線に(貴婦人)と呼ばれたC57蒸気機関車の運転が始まり、SLブームが起こります。これに注目したのが、下松工業高校の竹中清校長でした。「よし、うちも、SLを走らせよう」と思いつき、機械科の中野先生を校長室に呼びます。
「中野君、我が校の、あのSLは、動くかね」
「ガタは来ていますが、動かそうと思えば、動くと思いますよ」と中野先生、軽い気持ちで答えた。
年が改まって、昭和56年の1月、朝礼で、竹中校長が、突然、こんな話を始めたんです。
「ああ、ああ! えー、みなさん、おはようございます。えー、この10月、我が校も、創立60周年を迎えます。その記念事業に、あの正門にあります!我が校のシンボル、下工弁慶号を、走らせることにしました!あの蒸気機関車を、整備して、走らせるのは、 機械科の中野先生を中心に、桜谷先生、藤森先生、西村先生です。みなさん、10月の創立60周年の記念行事を楽しみに待っていてください」
 中野先生は、まさか朝礼で、校長がそんな話をするとは思っても見なかったので「足がガタガタ震えた」と言います。2月から、毎日、放課後から深夜にかけて、土日返上で、「下工弁慶号」の修復作業が始まりました。解体してみると、ボイラーの中のパイプは、すべて腐食し、ボイラーも煙突も安全弁も、ところどころ、穴が開いていました。毎日、実験室に、竹中校長が、下見にやって来て、励まします。
中野先生は、不安で仕方なかった。もし10月の創業記念日に、SLを走らせることが出来なかったら、「辞表を出す覚悟だった」と言います。
こうして、昭和56年10月9日、山口県立下松工業高校の60周年記念式典を迎えます。大正10年の開校した、県内でも歴史の古い名門です。記念式典には、県知事、教育長、市長も参列し、地元新聞社、テレビ局もやってきました。その日の主役「下工弁慶号」は、校庭に敷かれた90メートルのレールの上を、はたして走るのか。ピカピカに光った下工弁慶号が、白い煙をあげて姿を現しました。
「え、あのポンコツの弁慶号が!」
みんな、目を丸くして、その雄姿を見守りました。竹中校長は、マスコミに囲まれて、「どうです。いい記念になったでしょう」と誇らしげに取材に答えていました。中野先生は、その横で、ほっと、胸をなでおろしていました。いまは定年を迎えた中野先生。あの時を振り返って、こうおっしゃっていました。「長い教員生活の中で、あんな、いい時代は、ありませんでした」
その後、『下工弁慶号』は、下松市に寄贈され、市役所の庭に作られた、ガラスケースの中に大切に保管されて、町の顔になっています。