7月17日(火)

『手を失って見えたもの』

平成元年7月22日・・・暑い夏の日の午後でした。
朝からニンジン畑の植え付けの準備をしていた大野勝彦さんは、石灰を散布した後のトラクターを洗っていました。
ゆっくりと回転するトラクターの心棒に、水をかけていたときです。心棒に付いたゴミが目に付きました。指を伸ばしてそれを取ろうとしたその瞬間! 右手が心棒に巻き込まれ、向こう側から出てきました。
ああ〜! 咄嗟に右手を引っ張り出そうとした左手までが巻き込まれ、今度は全身までが機械に引き込まれていきます。あ! ああ〜!
大野さんの叫び声に気づいたお母さんは、半狂乱で見つめるばかり。お母さんは、機械の止め方を知らなかったのです。
(このままでは死んでしまう!)
全身の力を振り絞って、巻き込まれようとする体を後ろへ反らせ、大野さんは、ぺしゃんこになった自らの両手を引きちぎりました。右手も左手も、ヒジの先から20pほどの白い骨が飛び出ていました。

熊本県菊陽町(きくようまち)の農家の三代目として、受け継いだ農地をどんどん増やし、青年団などではいつも中心的存在、口数は少なく、決して涙は流さない。師と仰ぐ人もなく、信じるのは自分自身のみ。
こんな大野さんは、誰からともなく「鉄人28号」と呼ばれていました。こうした生き方、人生そのものが、全て否定されてしまうような事故。
「かあちゃん、何でスイッチを止めてくれなかったんだ!」
機械の操作を知らなかった母親に、イラ立ちをぶつけた大野さん。しかし、45歳の大野さんには、21年間連れ添った奥さんと、20歳の長女、17歳の次女、15歳の長男がいました。
包帯を巻いた右ヒジに、ボールペンをくくり付けて、
家族に手紙を書いたのは、入院から、たった三日目のことでした。

『ごしんぱいを おかけしました 両手先 ありませんが  まだまだこれくらいのことでは まけません がんばりま す 勝彦』
一文字ごとに深呼吸、汗をびっしょりかいて、2時間かけて綴った手紙。子どもたちから返事が来たのは、一週間後のことでした。
『今度のお父さんの事故で、わかったことが三つあります。
 お父さんは、強い人。お父さんは、私たちになくてはなら ない人。お父さんは、尊敬できる人。』
病室では無邪気に明るく振舞っていた子どもたちの、本当の想い・・・。人前では涙を見せたことのない大野さんの目から、涙があふれました。奥さんに見られまいと毛布をかぶり、絶望の淵にあった父は泣きました。背中を見せるばかりで、優しいことの一つも言ったことのない父の中に、
新しい命の火がともったのは、このときでした。

自然の細やかな営み、色の移ろい、密やかな息づかい、小さなささやき、農業をしながら、これまで見えなかった、気づかなかった沢山のこと。義手の先端の2本のフックにペンをはさんだとき、それを知りました。本を読んだことも、詩を綴ったこともない大野さんの胸の中に、たくらまずして、自然にあふれてくる言葉・・・。やがて、大野さんの義手は、絵筆も持つようになりました。さまざまな草花の絵に添えられた詩の数々・・・。

『踏まれても踏まれても 立ち上がるお前を 可愛くないヤ ツだと思っていた 今は私の 大先生』
『嬉しい 花が見えるようになった 忙しい人の前に 花は 咲かない』
『悲しみの中からしか 見えてこないものがある 
 人の優しさ 温かさ』
『涙は 悲しい時 くやしい時よりも
 嬉しい時のほうが いっぱい出てくるもののようだ』
『はい やります 今すぐ やります 元気です
 私を選んでくれた あなたに 感謝』
『神さま 誕生日のプレゼントに 一日だけ両手を返してく れませんか
 事故で心配をかけた人 辛い思いをさせた人の手を 
 心をこめて 握りたいのです』

大野さんの色紙は、病院の中で評判を呼び、沢山の人々を感動させ、そしてそれは町へと広がり、2年後には、個展を開くまでになりました。悲しみも苦しみも、全てを受け入れるところから見えてきた人の愛。それに応えようと、大野さんは2冊の本をまとめました。
タイトルは『はい、わかりました』 
もう一冊は『よし、かかってこい!』