7月16日(月)

『8人で始まった宮崎のマンゴー』

実は宮崎のマンゴーは、西都市から始まりました。
西都市では、これまで「みかん」や「ピーマン」などを
作ってきましたが…もっと「西都にしかできないモノ」は
ないか?と、地元のJA=農協が中心となって、
新しい作物を探しました。
そして…1984年(昭和59年)沖縄への農業視察で、
マンゴーと出逢います。試食した担当者は、あまりの
美味しさに即断したそうです。これを西都で作ろう!と。
そして翌年から実際に栽培がスタートします、22年前のこと
です。今では宮崎県内で200以上の農家が栽培をして
いますが、この時「マンゴーに挑戦してみよう」
と手を挙げた農家は、たったの…8人でした。
その中に、のちにリーダー的な存在となる曽我一敏
(そが・かずとし)さんもいました。曽我さんはいいます。
「当時マンゴーといっても、海のモノとも、山のモノとも
分からない代物でしたから…進んでやろうって人間は
少なかったんです。」
しかも、モデルとした沖縄のマンゴーは、日除けはする
ものの、いわゆる路地モノ=外で栽培する方法を
採(と)っていました。

しかし宮崎では、気温の関係で「ハウス」による栽培を
選択したのです。つまり、これまで誰もやったことのない、
「ハウス・マンゴー」の栽培をスタートさせたのです。
それは、想像を超える苦労に次ぐ苦労の「始まり」でした。
苗を育て、花を咲かせ…何とか「実」をつけるところまで
いくのですが、熟さず青いままで落ちてしまったり、
ヤニとよばれるベタベタした液体が出たり、黒い斑点が
ついてしまったりの繰り返し。肥料や水やりなどを変えても
結果は、同じ。途方に暮れる毎日だったといいます。
そして…ようやくその原因が分かりました。

それは「気温」でした。
これまでの農作物では、昼と夜の寒暖の差が大きいほど、
美味しいものが出来ていたのですが、マンゴーにその
「常識」は、通用しませんでした。高温多湿で、気温がある
一定以上は下がらない場所に育つので、夜、25度を1度でも
下回ると…マンゴーは一気にダメになる「神経質な果物」
だと、研究の結果わかったのです。
ここにたどりつくまでに、10年近くもの歳月が必要でした。
その間8人は、他の作物を作り、資金を工面し合いながら
なんとか力を合わせて乗り切ったといいます。
曽我さんはいいます。『8人居たから10年で出来たん
ですよ。それぞれが自分のアイデアや成功した方法を隠す
ことなくすべて教え合いました。その分、進歩も早かった。
もし1人でやっていたら、何年かかったか分かりませよ』。
この助け合い精神は…2年前の「台風14号」のときにも
発揮されました。この台風では、強風はもちろん激しい雨が
降り続き…マンゴー栽培の中心地域に「50年に1度と
いわれる水害」をもたらしました。マンゴーを育てていた
ハウスは全・半壊して、20年育てた木も含め、2000本の
マンゴーの木が流されてしまったといいます。このとき、
ダメになったところは修復に時間がかかるので今年は
諦めて…何とか助けられそうな木を、地域の栽培農家が
みんなで手伝って救ったといいます。

こうした苦労の末に実ったマンゴーは今、「西都方式」と
呼ばれる方法で収穫されています。マンゴーはギリギリまで
熟すと、自分で木から実を離して落とします。
これは木が限界まで栄養を与えた最高のマンゴーです。
これをネットで受け止めて、地面に落とさないように
収穫しているのです。これが今では多くのマンゴー農家が
やっている「西都方式」です。
最初に作り始めた8人が考えたものです。ちなみに…
「西都方式」で収穫したマンゴーの内、傷もなく、糖度は
15度以上、しかも350グラム以上もある大きなものは…
「太陽のたまご」という名前で最高級品として販売され、
特に人気となっています。

ここまでの22年間を振り返って、その感想を尋ねると…
曽我さんからは意外な答えが返ってきました。
『何とかここまできた宮崎のマンゴーですけど…
まだ、どうしても分からない部分が1割ぐらいあります。
温度管理はちゃんとしているのに、理由が分からず、
実が途中で落ちてしまう。でも思うんですよ、分からない
ところがあるから、未だにマンゴーに魅せられているんじゃ
ないかって。』