7月10日(火)

『闘牛に魅せられた先生』

2004年の10月、新潟地方を襲った「中越地震」・・・。
避難所の一角で、声をひそめ何事かを相談する人たちがいました。
「牛は、どうした?」
「ツナを切って放してきたが、ダメだろう」
小千谷地区の数百年の伝統「牛の角突き」を守る人たちでした。人の生死を問う状況の中、牛の話は、さすがにはばかられましたが、彼らはみな、真剣でした。道路は寸断され、被災地は立ち入り禁止。
「かまわん! 牛を助けに行こう! このままでは死んでしまう!」
彼らは、山の尾根伝いに被災地に乗り込み、散り散りになっていた牛たちを、一晩かけて山のふもとまで下ろしました。
牛舎の下敷きになった4頭の牛が犠牲になり、闘牛場の被害も甚大。それでも、彼らの胸の中には伝統の「角突き」へのあきらめなど、微塵もありませんでした。ある牛は長岡の家畜市場で飼育され、ある牛は、ふるさと岩手の南部に預けられ、次の春を待ったのです。
こうした人々の牛にかける愛情と情熱に魅せられて、5年前から足しげく、小千谷に通っている人がいます。
東京大学の准教授 菅豊(すが ゆたか)さん(43歳)・・・。
東洋文化研究所で、人と動物の様々な関係を研究して来られた先生です。菅(すが)さんに、小千谷の「牛の角突き」の真髄をうかがいました。
*小千谷の角突きは、勝負が決まる寸前で、すべて引き分けにする。
*外部の人は、これに物足りなさを感じ「最後まで闘わせろ!」と言う。
*しかし、決着が着く寸前で引き分けるところに、深い意味がある。
*たとえ勝負はつけなくても、力の優劣は分かり、番付ができる。
*「オレの牛は、押しまくった」「オレの牛は、うまく身をかわした」
それぞれの飼い主は、自分の牛のストーリーを綴ることができる。
「すべてが引き分けですから、小千谷の闘牛に、賭博は一切ないんです」
菅(すが)さんはそう言って、うれしそうに笑います。

菅豊(すが ゆたか)さんは、1963年、長崎県の生まれ。
本来、小千谷とは縁もゆかりもない研究者でした。
学生時代、新潟県北部に伝わる古風なサケの漁法を研究したことから、人と動物の関係というライフワークが決まったといいます。サケ漁ではサケの頭を叩く「恵比寿棒」という道具を使う所があります。漁師は「お恵比寿!お恵比寿!」と唱えながらサケの頭を叩いて引導を渡す。サケは、その棒をくわえて天国へ行き、幸せに暮らす。サケを獲る中にも、その魂を送る儀式を大切にしてきた私たちの祖先。
「生き物」と「人間」と「自然を司る神」・・・。
このサークルの中で人は動物と様々な関係を築いてきたのです。サケに続いてカモ、ニワトリ、中国のコオロギに至るまで、様々な研究を続けてきた菅豊(すが ゆたか)さん・・・。
その行き着いた先が、小千谷の人と牛の関係だったわけです。

「勢い」に子供の「子」と書いて勢子(せこ)と呼ばれる人たちは、人の格闘技にたとえれば、セコンドの役。それぞれ10数人の勢子に囲まれて、角を付き合わせる二頭の牛。
「ヨシタ〜!」つまり「よくやった〜!」の掛け声にはやされて、5分くらいの熱闘を繰り広げる二頭。引き分けの合図がかかると、勢子たちはいっせいに、相手の牛に駆け寄り、後ろ足に綱をかけ、牛を引き止めます。急所である鼻の穴に指を入れ牛を鎮めるのだけは、飼い主の役目。勝負がきれいに分かれた所で、満場の拍手が沸く!
この勢子の勇ましく粋な姿にあこがれて、菅(すが)さんはとうとう、75万円の大枚をはたいて、岩手の南部牛を買い、勢子を志願!地元に縁のない人が、牛を持つ勢子になれたのは、初めてのことです。
菅(すが)さんの牛の名は「天神」・・・3歳、700キロの南部牛!「天神」の世話をしてくれるのは、地元の友人、川上哲也さん。中越地震の被災者で、今も仮設住宅の暮らしを強いられている人です。角突きの牛に、人工の飼料はやれないので、自然の草を刈り取り、朝晩2回食べさせる。30gの水運び。散歩と角突きのトレーニング!
大変な手間と労力です。この闘牛で結ばれた友情の甲斐あって、「天神」は、今月の1日、デビュー戦を迎えました。
土俵際まで押されつつ、中央に戻ってから、なおも角を合わせた「天神」立派な戦いぶりに、菅(すが)さんの涙は止まりませんでした。これから11月まで、月に一度開催される小千谷の角突き!東京大学 准教授 菅豊(すが ゆたか)さんの小千谷通いは、続きます。
人々と牛、そこに通い合う熱い心を求めて・・・。