7月4日(水)

『「なぜか埼玉」さいたまんぞうさんの誕生秘話』

「なぜか埼玉」がヒットしたのは、1981年のこと、もう四半世紀前。唄うは、さいたまんぞうさん。当時31歳でした。出身は、岡山県の柵原町に6人兄弟の末っ子として生まれます。本名は、牛房公夫(ごぼうきみお)さん。10歳のときに、父を亡くし、21歳年上の長男が親代わりに育ててくれました。小学生のころから、野球が大好きで、夕食が住むと、ラジオのスイッチを入れ、野球中継に耳を傾けました。中学に進むと、もちろん野球部に入ります。勉強はまったくしません。ですから高校は、岡山市にある名門、関西高校の、野球部のセレクションを受けました。150人の中学生が各地から集まりました。フリーバッティングで、10球ずつ打たされます。牛房少年は1球目から続けさまに、ヒットを連発。これが監督の目に留まって、150人中15人に選ばれるんですね。夢にまで見た、甲子園を目指せる。しかし、 自宅から岡山市まで電車で通える距離ではありません。市内の親戚の家に、兄と訪ねて下宿をお願いしますが、返ってきた言葉が『野球で飯は食えん!』。そのひと言で、関西高校の進学を諦めるしかありませんでした。その晩は、布団に包まって声を上げて泣き明かしました。唯一の生き甲斐だった野球を奪われて、牛房少年、もうラジオで、野球中継を聞くことはありませんでした。高校は、バスで通える高校へ進みますが、野球部がありませんでしたから、3年間、アルバイトに明け暮れました。ある日、ラジオのダイアルを廻していると、流れてきたのが、デビューしたての西郷輝彦さんが歌う『君だけを』でした。
 この曲が、牛房少年の人生を大きく変える、一曲になるんです。明星か平凡の記事で、西郷輝彦さんが、鹿児島から家出をして、大阪のバンドボーイになって、その後、スターになって行く、そんなサクセスストーリーを読んだ牛房少年は、「よし、オレも、東京に出て、歌手を目指そう!」と思い立ちます。高校を卒業した春、岡山から新幹線に乗り、上京します。向かった先は、渡辺プロダクション。有楽町の松井ビルを訪ねます。
「あの〜、バンドボーイになりたいんですけど・・・」
「お目当てのバンドはあるの?」
「クレージーキャッツかブルーコメッツ、ドリフターズでもいいんですけど」
「ああ、どれも間に合っているよ。アウトキャストなら、どうだ・・・」
渡辺プロのGS第一号の「アウトキャス」のバンドボーイになった牛房さん、メンバーから、こう聞かれます。
「おい、牛房、おまえ、将来、何になりたいんだ?」
「西郷輝彦のような、歌手になりたいんです」
「歌手? 笑わせるな、お前の歌じゃ、飯は食えんよ!」
「野球でも飯が食えん」、「歌でも飯が食えん」と言われ、牛房さんは、22歳から、バンドのドラマーになって、キャバレーやクラブを回ります。30歳を過ぎたある日のこと、先輩のドラマーから、思いもよらぬ話を持ち掛けられます。「牛房、レコード出してみないか?」「え! 僕がレコードを、出せるんですか?」夢にまで見た歌手デビュー。これで、故郷に錦が飾れる!「ただ、レコードを出すには、条件があるんだ。その条件とは、歌が下手なこと。そして、こぶしをつけて唄わぬこと。お前にピッタリだろう?」話を聞くと、自費でレコードを作って売っている会社からの依頼でした。今で言うインディーズ。曲名は「なぜか埼玉」、「さいたまんぞう」という芸名も用意されていました。「変な曲だけど、このチャンスを逃したら、一生、レコードを出す事は出来ない」と、二つ返事で、レコーディングに臨みます。そして、待ちに待ったレコードが完成しますが、待っていたのは、埼玉県内のスナックを何軒も売り歩く営業でした。酔っ払ったお客さんを相手に、レコードを手売りしていきます。レコードを投げつけられたことは、一度や二度じゃありません。歌が下手。愛想もよくない。これじゃ、レコードは売れません。ところが、事件が起こるんです。牛房さんは、その日のことを「2・26事件」と呼んでいます。当時、ニッポン放送の深夜番組、「タモリのオールナイトニッポン」の『思想のない音楽会』というコーナーに、このレコードを送られてきた。送ったのは、埼玉県の高校生で、「うちの父ちゃんが、スナックで、こんなレコードを買わされました」と書き添えてあった。このレコードを聞いたタモリさん。「こんな下手な歌手が、いまどき、いたのか! 名古屋の次は、埼玉だ!」。番組で「なぜか埼玉」をかけたのが1981年の2月26日のことでした。この放送を聞いていたのが、フォーライフレコードのディレクターで、「これは面白い!」と全国発売。話題が話題を生み、8万枚を売り上げるヒットとなります。こうして「さいたまんぞう」さんが唄う「なぜか埼玉」が、世に知れ渡ることになるんですね。あれから26年の歳月が経ちました。もちろん、さいたまんぞうさんは、現役で頑張っていらっしゃいます。名刺には、『歌と司会と野球の審判』。牛房さん、こうおっしゃいます。『野球でも、歌手でも、飯は食えん!と言われましたが、草野球の審判をしながら、歌を唄って、司会もやって、来年、還暦を迎えますが、どうにかこうにか、飯を食っています。ひょんなことから、「さいたまんぞう」という芸名をもらいましたが、一生、「さいたまんぞう」と、付き合って、生きて行こうと思っています。』