6月25日(月)

『平和の火と呼ばれて…。』

地球の環境問題を考えるイベント、『アース・デイ北海道・
イン屈斜路湖』が、このイベントには、「平和の火」と
呼ばれる火が灯されて大会のシンボルとなっています。
この火は、ただの火ではありません。日本、いや世界でも
唯一の、「投下された原子爆弾の火」…なのです。
戦後何十年もの間、消えないように絶やさぬように、
ある人物が密かに守り続けてきたものなのです。
その人物とは…大分県との県境に近い、杉林に囲まれた
小さな山村、福岡県星野村に住んでいた山本達雄さんです。
山本さんは、3度目の招集で広島の部隊に配属されます。
そして1945年8月6日、広島市内の中心部にあった
「本隊」に用事があって電車に乗っていました。
朝の8時を少し過ぎたときのことです。一瞬、電車の中を
真っ白な光が走ったかと思ったら…大きな爆発音と激しい
揺れを感じ、電車はその場で動かなくなりました。
原子爆弾が投下された瞬間でした。
大きなケガをすることのなかった山本さんは、
電車を降りると、一目散にある場所に向かいました。
現在は「原爆ドーム」と呼ばれている建物の近く、
市内の大きな通りにあった本屋さんでした。
実はこの本屋さん、山本さんを親代わりとなって育てて
くれたおじさんが経営していました。どうやら大きな爆弾が
落とされたようだが…おじさんは無事だったか?真っ先に
それを考えたからでした。しかし…市内を歩き始めて
すぐに、山本さんの希望は砕かれ、打ちひしがれます。
建物の多くは、跡形もないほど壊されて、あらゆるところに
死体が転がり、水を求めて叫ぶ瀕死の人の姿がそこかしこに
見られたのです。まさに「地獄絵図」でした。

目当ての本屋さんにたどり着きましたが…建物はやはり
崩れ去っていました。それでも、どこかに逃げ延びている
かも知れない。そんな希望を捨てられず…数日間、
高い放射能が残る市内を歩き回って消息を確認したそう
です。しかし…やがて諦めなければいけない日がきます。
被爆現場の処理をしていた部隊の仲間が次々と倒れていき…
いつしか自分もと考えた山本さんは、地元・福岡県星野村に
帰る決意をしたのです。
最後にもう一度、あの本屋さんのあった場所に立ち寄り
ました。骨が拾えなかったので、何か遺品を…と思ったから
でした。しかし、もう何も残っていませんでした。呆然と
立ち尽くす山本さんの目にあるものが映りました。
瓦礫の下で小さな炎を揺らす「火」でした。

火を見つけた山本さんは、雑納袋からあるものを取り出し
ました。3度目の出征の際に、祖母が「お守り」の代わりと
して渡してくれた「カイロ」でした。その「カイロ」に火を
移すと、残暑の続く中、「火のついたカイロ」を地元に
持って帰ったのです。
そして、その火は「かまど」に移され、「火鉢」に移され、
「仏壇の火」として燃やされ続けます。当時を振り返って…
息子さんの山本拓道(たくどう)さんはいいます。
「我が家では、夏でも火鉢の火が消されることはありません
でした。子供の私は、他の家に行って火のない火鉢を見て…
なんで火がないのか?不思議に思ったほどでした」
こうやって山本達雄さんが広島でカイロに移した
「原爆の火」は、戦後、決して一度も消されることなく
燃え続けたのです。

現在は、星野村の大きな公園の一角に、新しく建てられた
「塔」に火は移され、燃え続けています。
なぜ…山本達雄さんは、「原爆の火」を家の中で静かに
灯し続けたのか?息子さんの拓道さんは、決して「平和」を
願うだけの単純な理由ではなかったはずだと語ります。
父・達雄さんは、一生、あの被爆直後の広島市内で見た
惨状を忘れることはありませんでした。悔しい思いで
この世を去っていった人たちの思いを、決して忘れては
いけないと思っていました。ご自身も、長い間、原爆病に
苦しめられました。
だから…いつかこの火で仇(かたき)をと、当初はそんな
思いで燃やし続けた一面もあったというのです。
しかし、その一方で…時間が流れ、国の形も、国同士の
付き合いも大きく変わっていくのを目(ま)の当たりに
します。
そんな中で…いつしか平和への思いも強くしていきました。
2004年の5月。山本達雄さんはこの世を去り、あの火で
荼毘に付されました88歳でした。その最期の日が近づいた
ある日…息子・拓道さんが耳にした言葉。それは、こんな
言葉でした。
『人間どうしが殺し合うようなおろかなことは、
もうそろそろ、やめにゃあかん』
                        (了)