3月28日(水)

『三信ビルとニューワールドサービス』

 植木等さんの誕生日は、昭和2年、2月25日。先月、80歳の誕生日を迎えたばかりだったんですね。植木さんが生まれて3年後の昭和5年、この年に建てられたのが、ニッポン放送からすぐ近くにある、日比谷の「三信ビルディング」です。三信ビルの前には、ゴジラの銅像があって、足元には、昭和を彩った映画スターの手形が、いつくも埋め込まれています。その中に、植木等さんの手形を見ることが出来ます。「植木等」というサインと、「判っちゃいるけど やめられない」と自筆の文字が刻まれています。また一人、昭和のスターが、天国へ逝ってしまいましたが、同じように、昭和を代表する建物だった三信ビルも、近々、解体されることが決まっています。77年の歴史を持つ、地上8階、地下2階のオフィスビルで、風格のあるドアを押して入ると、時代を感じさせるエレベーターホール、1階と2階が吹き抜けになり、天井がアーチ型のアーケード、昭和初期にタイムスリップしたような錯覚になります。
 昨年、オフィスや店舗が立ち退き、ただ1店舗だけ、「ニューワールドサービス」というレストランが残っていましたが、ここも、3月30日、今週金曜日をもって、57年の歴史に幕を閉じることになりました。戦後、日本に初めて、ソフトクリームとハンバーガーを紹介したお店で、中に入ると、87歳のオーナーが、席へと案内してくれます。オーナーのウォンさんは、香港系の中国人です。厨房には、ウォンさんの長女が、料理を担当しています。いつも店内に流れているBGMは、長男でピアニストの、ウォン・ウィンツァンさんが奏でる、ピアノのメロディーです。
 「ニューワールドサービス」のオーナー、ウォン・チョンタクさんは、1919年、香港の貿易商の裕福な家に、14人兄弟の三男として生まれます。大学は、関西学院大学に留学し、卒業後も、神戸に住み、新聞記者を経て、中国領事館の大阪の責任者をしていました。戦時中、神戸は、2度、大きな空襲に遭います。昭和20年3月16日の空襲の時、仕事をしていてウォンさんは、防空壕へ逃げ遅れます。ところが、その防空壕が直撃を受け、避難していた人が全員亡くなるんです。また、6月5日、2度目の空襲は、自宅の屋根に焼夷弾が落ちますが、なんと、屋根瓦を焼夷弾が滑り落ちて、隣の民家が全焼。この九死に一生を得た経験から、ウォンさんが、いつも口癖のように言っているのが、『運命、あります』。つまり、「人は、運命によって、生かされている」ということなんですね。戦後すぐ、GHQの通訳をした後、ウォンさんは、昭和24年、三信ビルで、GHQの兵士さんを相手に、「ニューワールドサービス」をオープンします。渡辺プロダクションも有楽町にあったので、当時のスターたちも、お忍びで、ハンバーガーやソフトクリームを食べに来たそうです。植木等さんも、その一人だったかもしれません。長男のウォン・ウィンツァンさんは、休みなく働いている父の姿しか、見たことがありませんでした。5歳からピアノを習っていたウォンさんは、「自分は、商売なんて、やりたくない。好きな音楽の道を進みたい」と、10代のころ、父の生き方に反発を感じていました。
 父を理解できるようになったのは、40歳を過ぎてから。自分に子供が生まれ、家族を持つようになって、初めて、父の偉大さが分かり、尊敬できるようになったそうです。「父は、仕事が生き甲斐のような人だったけれど、本当は、家族のために、一生懸命に働いていたんだ・・・」と、分かったと言います。オーナーのウォンさんは、マスコミの取材を、いっさい、受けない人でした。そんな頑固さで、ハンバーグの味を、昔のまま、守り続けています。閉店が決まってからは、(あの味を、最後に食べておきたい)と、サラリーマンや、定年になったお父さんたちが、「ハンバーグステーキ」や「デラックスハンバーガー」を食べに来ます。お昼を過ぎると、どちらも、売り切れ状態です。今週金曜日が、最後の日になります。家族が、「花束を用意する」と言ったそうです。すると、ウォンさんは、こう、断りました。
「花束は、いっさい、やめてください。私は、次の仕事を、やろうと、考えていますから・・・」
 最近、息子のウォンさんに、オーナーのウォンさんが、こんなことを聞いてきました。「デジタルって、なんですか?」「インターネットとは、どういうことですか?」なぜ、そんなことを聞くのか、息子さんが聞き返すと、「一生、現役で仕事を続けたいから、インターネットで、ビジネスチャンスを見つけたいのです。」
 87歳。植木等さんより、7歳も上ですが、仕事を続けることが、元気の秘訣なんでしょうね。


☆番組で、おかけした曲は、
 ウォン・ウィンツァンさんのアルバム『フレグランス』から、「インデアンサマー(冬の陽だまり)」でした。