3月2日(金)

『遠山の金さんの日』

今日、3月2日は「遠山の金さんの日」だそうです。1840年(天保十一年)、遠山の金さんこと遠山金四郎、正式には、遠山左衛門尉影元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)が、呉服橋にあった北町奉行に任命されたのが、3月の2日だったそうです。

お白洲の上で「全く身に覚えのないことで」と、シラを切る悪党。お父っあんを殺された被害者の娘さんが、涙ながらに訴えます。
「金さん! 遊び人の金さんなら、全てを知っています!」
すると悪党は、憎々しい薄ら笑いを浮かべながら言う。
「金さん? はて? どこの馬の骨とも分からない遊び人のことなど全く存じません。その金さんとやらを、ここに連れてきて頂きたい」
お奉行様の上品だった態度が、ガラリと変わるのは、ココです!
「やかましぃやい! 悪党ども!おうおうおう、黙って聞いてりゃ言いたい放題!金さんに、そんなに会いてぇなら会わせてやらあ。おう! これに見覚えがねぇとは言わせねえ!
この桜ふぶき、散らせるもんなら散らしてみろぃ!」
と、片肌を脱ぐと、そこには金さんと同じ見事な桜の彫り物!悪党たちは、アワアワして「へへえ〜」・・・という筋書き。

これまでのテレビドラマでは、実にいろんな方が「遠山の金さん」を演じていらっしゃいました。市川海老蔵さん、中村梅之助さん、市川段四郎さん、橋幸夫さん、杉良太郎さん、高橋英樹さん、松方弘樹さん、西郷輝彦さん、里見浩太朗さんなどなど・・・、そして今は、毎週火曜の夜7時、松平健さんが、桜ふぶきを見せている。

果たして、遠山金四郎とは、どんな人だったのか?
そもそも、本当に、あんな桜ふぶきの彫り物をしていたのか?「遠山の金さんの日」にちなんで、その実像に迫ってみましょう。

遠山金四郎の生い立ちは、ちょっとややこしい。
長崎奉行だった父親は、息子がいなかったので、親族から養子を迎えた。ところが、その後で、金四郎が生まれたんです。そして、養子の兄に子供がいなかったので、その息子として縁組をする。ところが、その後でまた、実の子供が生まれる。こんな中で、金四郎は21歳頃から32歳頃まで、何をしていたかが不明。このあたりが、後の芝居や講談で自由なストーリーが作られた原因です。
遠山金四郎を名奉行として最初に紹介したのは、中根香亭(きょうてい)という人。明治26年の雑誌の中に書いた。それによると、金四郎の二の腕から肩にかけて、彫り物があったとある。桜ふぶきではなく、髪を振り乱して口に手紙をくわえた美人の生首!このほうが、物語としては面白くて凄みがあります。実際、金四郎は夏場も長袖の下着を付けていたという説がありますが、腕に彫り物をしていたのは、同僚の根岸肥前守(ひぜんのかみ)という人。その人と話が混ざったのではないかと言われています。当時の町奉行というのは、東京都知事と東京地裁の所長と警視総監、この三つを、一緒に務めるような忙しさ!とても町に出て、遊び人を気取ってるヒマも無かったようです。

では、遠山金四郎という人が、あれほど人気者になったのは何故か?老中の水野忠邦は、江戸の財政を立て直すため「天保の改革」を断行。庶民の暮らしや楽しみを、徹底的に規制しました。商人の組合に解散命令を出したり、歌舞伎を禁じようとしたりした。これに輪をかけたのが、南町奉行の鳥居耀蔵(ようぞう)という人。彼は、歌舞伎役者を江戸から追放したり、作家や絵師を処罰したり、庶民の釣り、花火、将棋にまで規制を加えていく。こういうことに、ジッと目をつぶってくれたのが北町の遠山金四郎。北町奉行と南町奉行は、一ヶ月交替で取締りをしていたので、庶民たちは「南町の鳥居様よりは、北町の金さんの方がいいや!」となったわけです。つまり、何かをしたというよりも目立つことをしなかったので、遠山金四郎は、その後の派閥抗争に巻き込まれることもなく、60歳の年まで、要職の地位にあり続けた超エリート官僚でした。ちなみに、金四郎は痔を患っていて、馬での登城が困難でした。幕府は特別に、駕籠(かご)での登城を許したという文書が残っています。