2月26日(月)

『今も続く二・二六事件合同慰霊祭』

昭和11年=1936年の2月26日未明に起きた
『二・ニ六事件』。
場所によっては、膝丈まで積もったといわれる
「大雪の東京」で、陸軍の青年将校を中心とした
1500弱の兵士たちが武装蜂起、
新しい国づくりをめざす「昭和維新」を掲げ、
クーデーターを起こした事件です。

内(ない)大臣や大蔵大臣を始めとした政府関係者や
その警護に当たっていた警察関係者などが殺害され、
決起部隊は総理官邸や警視庁などを占拠します。
しかし、戒厳令が発令され…軍みずからが鎮圧に
乗り出して、3日後の29日、武力衝突もなく、兵士たちが
投降して事件は終結します。

中心となった2人の「大尉」は自決し、
首謀者と見なされた将校たち19人は、
のちの軍法会議で死刑となっています。

事件から今年で71年が経ちました。
すでに「遠い昔の事件」と受け取る方も多いと思いますが…
実は、事件後から現在に至るまで、
『二・ニ六事件 合同慰霊祭』というのが行われています。
場所は、麻布の賢崇寺(けんそうじ)。
なぜ、このお寺さんだったのか?
そこには、こんな「物語」がありました。

事件後、処刑された将校たちの「遺骨」は、
行き場を失っていました。当時は、国家に刃向かい
「死罪」になった者は、「公の埋葬や法要を行っては
いけない」とされていたからです。
そのため、どの「お寺」も、遺骨の引き取りは
してくれませんでした。

困った遺族の一人、首謀者とされた栗原中尉の父
勇さんが、佐賀県出身だったことから、
佐賀・鍋島藩の菩提寺であった「賢崇寺」に相談をします。
勇さん自らが仏門に入り、お坊さんとなることで供養を
全うしたいとの申し出に、当時の住職が応えてくれました。
そして…子供と同じように、職業軍人として「大佐」にまで
昇り詰めた人物が頭を丸め、実際にお寺で修行を行ったと
いいます。

その間、住職は何度も憲兵隊や内務省、警察へと足を運び、
『慰霊の法要』を執り行ないたい…とお願いをします。
さらに、住職は、仏となったのは「青年将校」だけでなく、
彼らに命を奪われた「政府」や「警察」などの関係者も
同じこと。ぜひ一緒に「合同の慰霊祭」としたいとしたの
です。こうした熱意が伝わって…事件の翌年、当局立会いの
もと、最初の「追悼法要」が行われたといいます。

例え、国家のためを思ったとはいえ、事件で殺害された
遺族の気持ちを思えば…決して、クーデーターを起こした
兵士のことを一方的に「美談」にすることはできないかも
知れません。

しかし、そうしたことを乗り越えて行われ続ける
『合同慰霊祭』があります。
ひとりの僧侶の「仏心」がつくったこの法要は、
今日も、午後の1時から執り行なわれる予定となって
います。