1月24日(水)

『奇跡の船「宗谷」』

来週月曜日1月29日は、日本で最初の南極観測船「宗谷」が、南極に到着し、昭和基地を開設した日なんですね。
1957年、昭和32年のことですから、今年は南極観測50周年なんですね。南極観測50周年を記念して、並木書房から出版されたのが『奇跡の船「宗谷」 昭和を走り続けた海の守り神』。30代の著者の桜林美佐さんが、なぜ「宗谷」という船に注目し、ノンフィクションを書いたのか? 桜林さんの知り合いのお父様が宗谷の艦長だったのがキッカケでした。(ああ、南極観測船の艦長だったんだ)と桜林さんは思います。ところがよくよく話を聞けば、南極観測船ではなく、軍艦「宗谷」の艦長。(え? 宗谷が、軍艦だった?)宗谷の生い立ちを調べれば調べるほど、驚かされることばかりでした。当時の数少ない乗組員に会って貴重な話を聞き、資料や写真を手に入れ、およそ2年かけてまとめたのが、この「奇跡の船『宗谷』」という本なんですね。昭和11年、「宗谷」は、ソ連からの発注で「耐氷型(氷の海に耐えられる)貨物船」として、長崎の小さな造船所で作られます。ところが、第二次世界大戦直前とあって、日本軍の圧力がかかり、ソ連へ引き渡さず、交渉の末、日本の船にしてしまうんです。昭和15年、日本海軍の測量任務を行う特務艦として、「宗谷」と名前を改めます。ここから「宗谷」の運命が大きく変り始めます。
太平洋での海戦に備え、南方の「海図」を作るために、宗谷は、任務に就きます。昭和16年、太平洋戦争が始まると、直ちに、「宗谷」にも出動命令が下り、戦地に運ぶ燃料や食料などを慌しく満載し、南方に向けて出航します。南洋航路は、一年前と違って、戦時下の緊張感が漂っていました。ひっきりなしに「敵潜水艦出没」の情報が入ります。敵潜水艦に狙われないように、ジグザグ航行で、とにかく敵の目から逃れるしかありませんでした。前線基地のトラック島に着いて、荷揚げ作業をしていた夜、B24型機による空襲を初めて経験しますが、ほとんど無傷のまま、無事に任務を終えて、横須賀港に帰港します。昭和17年5月、「宗谷」は、ミッドウェー作戦に加わります。宗谷は、石炭船です。速度は8ノット。ほかの戦艦は、16ノットの速度が出ますから、半分のスピード。「宗谷」の任務は、何だと思います?作戦が成功し、ミッドウェーを占領したあと、直ちに、宗谷が、ミッドウェーの測量を行う、というものでした。ミッドウェー海戦が始まると、後方で、成り行きを見守っていました。結果は「機動部隊の空母全滅」。その悲報をいち早く傍受したのも「宗谷」でした。昭和18年1月18日、ソロモン諸島の小さな島の測量をしていた「宗谷」に、最大の危機が訪れます。後方に、敵の潜水艦が近づき、魚雷を発射。白い波がサーッと走るのを、乗組員が発見。「魚雷だ!」2本、3本と、魚雷の白い筋が宗谷に向かってきます。ズドンという鈍い音がして、グラグラグラと揺れますが、ここで奇跡が起こるんですね。なんと、その魚雷は不発弾だったのです。年が明け、昭和19年、戦況はますます悪化の一途を辿ります。連合艦隊司令部は、トラック島に置かれていました。毎日のように米軍が飛んできて、2月17日、18日の大空襲は悲惨を極めました。早朝から始まった米軍の空襲は、延べ450機・・・、次々と、連合艦隊の戦艦が撃沈されていきました。宗谷は、敵の攻撃を避けながら、右へ左へと旋回して、攻撃を交わしますが、その途中、浅瀬に乗り上げ、身動きが取れなくなってしまいます。敵の思いのままに攻撃を受け、乗組員が銃弾に次々と倒れ、その甲板は、血の海になったそうです。艦長も負傷し、副長は戦死・・・。最悪の状況の中、「総員退避!」の命令。宗谷を捨てて、乗組員は、陸に上がり、極限の状態から脱出します。翌朝、静まり返ったトラック島の港・・・そこは、まさに地獄絵だったそうです。その被害は、艦船50隻、航空機250機、燃料タンク3基などの施設が、すべて破壊され、戦死者は600名。この数は沈没した船の乗組員は含まれていません。宗谷での戦死者は10名。生き残った宗谷の乗組員が、港を見渡します。すると、朝もやの中に、1隻の船・・・、「見ろ! 宗谷だ!」地獄のような惨状の中、ぽつんと、宗谷だけが浮かんでいました。2日に及ぶトラック島の大空襲に耐え、生き残った宗谷は、直ちに、2ヶ月かけて、横須賀へ帰港します。この横須賀港でも空襲を受けながらも、撃沈されることはなく、宗谷は、横須賀と室蘭を結ぶ輸送任務を続け、ようやく終戦を迎えました。戦後、「宗谷」は、昭和23年まで、「引き揚げ船」として、1万9000人に及ぶ、引揚者を祖国へ送り届けました。
「奇跡の船『宗谷』」の著者・桜林美佐さんは、取材で聞いた話が、いまも心に残って、忘れることが出来ません。南方の島々の兵隊を乗せて、日本に近づいたとき、水平線の彼方に、富士山が見えてきます。甲板では、万歳の声が上がります。ところが富士山を見てホッとして息を引き取る人が何人もいたということでした。それだけ、南方戦線は激戦を極めたんですね。宗谷は、いま、お台場の「船の科学館」で一般公開されています。終戦の翌年、大ヒットした田端義夫さんの「かえり船」。あのモデルは「宗谷」なんだそうです。