12月29日(金)

『えんぴつの会』

お正月休みを使って、本を読もう、ビデオを見よう、いろいろ計画している方も多いでしょうが、たった一冊の本との出会いが、人生を決めてしまうことがあります。
見城慶和(けんじょう よしかず)さん(69歳)は、東京学芸大学を卒業する間際だった昭和36年、ふと立ち寄った本屋さんで「夜間中学生」という本を手にします。「ラーメン一杯分の日当で働く生徒」「給食のコッペパンを半分だけ残して、弟や妹に持ち帰る生徒」・・・そんな話を読むうちに、見城青年は、店先の赤電話でその学校へ電話していました。「見学させてください」・・・と訪れたのは、荒川区立第九中学校。先生が「きのうもね、こんな卒業作文を書かれちゃいましたよ」と見せてくれた原稿用紙。そこには小さな文字でこう書かれていました。
『学校をそつぎょうしたら、私はまた、ひとりぼっちで、
 夜、ふとんの中で、泣いて暮らしていくのです』
(自分はいったい、大学の4年間で、何を勉強してきたんだ?!)見城青年はこのとき、全く知らなかった別世界の扉を開いたのです。それから平成15年に定年退職するまでの42年間、見城先生は「夜間中学校」の教育一すじに歩んで来られました。昭和30年代までは、家が貧しくて学校に行けない子どもたち。昭和40年代に入ると、学ぶ機会を戦争に奪われた中高年。昭和50年代からは、不登校の生徒たちも増えました。「夜間中学」はいつも、時代の底辺を映す鏡でした。
そこで出会い、様々なことを教え、学ばせてくれた生徒たち。見城先生は自分のことを、こんなふうに言います。
「私は、日本一、幸せな教師だったと思います」

荒川区立第九中学校「夜間学級」の授業は今のこの時代にも
主事さんや日直の先生が鳴らす鐘の音で始まり、鐘の音で終わります。生徒も先生もこの鐘を『千江子の鐘』と呼んでいます。(永井千江子)さんは、昭和36年に入学。新任教師だった見城先生の初めての生徒で、年齢は36歳。先生より年上の新入生でした。戦争で母と姉を失い、父の看病で学校へ行けなかった千江子さんは、「何か資格を取って、恵まれない人の役に立ちたい」と定時制高校に進学。そこで胸のがんが発見され、亡くなってしまいます。残されたわずかばかりのお金は「夜間中学に寄付してほしい」と綴られた日記。このお金をもとに作られたのが『千江子の鐘』です。

「手紙というものが書きたくて仕方なかったんです。うれしかった!」53歳の(浅見タケ)さんは、入学した年の暮れ、生まれて初めて、年賀状というものを書きました。浅見さんは詩や作文も上手です。『私は幼い時、家が貧しかったので、学校へ行くことができなかった。  ずいぶん年を取ってから、私は私の乗れる汽車を見つけた。それは、夜間中学という鈍行列車。私の乗った駅は、荒川九中駅』

38歳の(井上年栄)さんは運動会に備えて、自転車通勤をやめました。たっぷり足腰を鍛えて出場した800m競走は、ダントツの1位!『駆けに駆けた。ただ走るだけが目的だった。とっても疲れた。でも、それで得たものは大きかった。それは、無報酬の報酬でした』
「無報酬の報酬」という宮沢賢治の生き方を、しっかりつかみ取ってくれた生徒の素晴らしさに、見城先生は目を潤ませました。

15歳の(小林久美子)さんの作文。
『私は夜間中学で、かけ算の九九を習いました。平和の文字と共に願う心を学びました。漢字で「貧乏」と書けるようになりました。そして私は、親を恨んでも、問題の解決にはならないことを、親の後ろには社会の大きな流れがあることを学びました。そして救われました。親を否定することは悲しく辛いことでしたから』

様々な形で、社会からハジかれ、下げすまれ、必要とされなかった人たち。けれども「こんばんは!」で始まる教室の中には、無用な競争も評価もありません。そこにあるのは、純粋に学ぶ歓び!人の話に耳を傾け、自分の話を聴いてもらう楽しさだけなのです。

2003年、定年によって教師の職を解かれた見城先生は、
週に3度開かれる勉強会「えんぴつの会」の運営スタッフとして奔走しています。
不登校やひきこもりの若い人から、上は80歳代の人が6人!
見城先生は、笑顔で言います。
「今日はどんな話がきけるのかなぁ? どんな勉強ができるのかなぁ? そう思いながら歩いてると、思わず小走りになってしまうんですよ」