12月20日(水)

『テンポイント出生秘話』

今週日曜日は、競馬ファンのみならず、日本中が注目の、ディープインパクトの引退レース、第51回「有馬記念」が行われます。これまでも数々の名勝負や名場面を生んだ有馬記念。中でも1977年、第22回の「テンポイントとトウショウボーイの一騎討ち」は、日本競馬史上最高のレースといわれています。
当時は、トウショウボーイ、グリーングラスなど、圧倒的に関東馬が強く、テンポイントは、関西馬・期待の星でした。杉本清アナウンサーの「見てくれこの脚!これがテンポイントだ!」の名台詞は、いまもなお、競馬ファンに、語り継がれています。有馬記念を勝ち、海外遠征が決まり、その壮行レースとなるはずだった1月の「日経新春杯」で骨折し、この世を去る「悲運の名馬」テンポイント。実は、このテンポイントの血統を辿ると、実に数奇な運命がありました。
テンポイントの祖母にあたる「クモワカ」という馬まで話は遡ります。昭和27年の冬、京都競馬場で、伝貧(デンピン)と呼ばれる集団感染の騒ぎが起こります。クモワカも感染したという診断を受け、京都府から殺処分が言い渡されます。馬主は、この処分に納得がいかず、農林省家畜局や京都府に足を運び、伝染病である証拠を見せてほしいと詰め寄ります。殺処分から隔離治療となりますが、レースに出られず、子供も産めない。そんな処分から3年後の昭和30年、9月のある日、8歳になったクモワカが、忽然と、京都競馬場の厩舎から姿を消します。誰もが、クモワカは、死んだと思いました。実は、クモワカを世話していた「かずちゃん」と呼ばれる厩務員が、深夜に、クモワカを連れ出し、北へ北へと、ふるさとの北海道を目指して旅を続けるんですね。9月に京都を離れ、故郷の北海道の吉田牧場に辿り着くのが11月。この2ヶ月、どのように移動したのか、記録は残っていません。昭和30年のことですから、京都から北海道へ、馬を運ぶことは、相当、苦労したことだけは、想像できます。
クモワカと「かずちゃん」は、そうして青森に辿り着き、津軽海峡を青函連絡船で渡り、やっとのことで、北海道にたどり着きます。ところが、五稜郭に検疫所があり、ここで、足止めをくってしまいます。農林省家畜局が発行する、「移動のための証明書〜上記の馬は、伝貧にかかっていないことを証明する」という証明書の提示を求められます。
「国の許可が無い限り、ここを通すわけには行かない」。「だったら、この馬が病気かどうか、診てくれ!」「勝手には出来ない!」数日、このやり取りが続きますが、結局、検疫所がクモワカの診察が始まりました。結果は「伝染病の疑いはなし」。もし、このとき、獣医さんが、「健康証明書」を発行しなかったら、クモワカは、故郷の吉田牧場に辿り着けなかったかもしれません。
しかし、一度、伝貧で殺処分を受けたクモワカは、子馬を生んでも、サラブレッドとして登録することは、認められていません。そこで、伝貧だったことが誤診だったと裁判を起こし、世論の後押しもあって、血統書を取り戻すことが出来ました。クモワカが生んだ最初の血統書付きの子が「ワカクモ」。昭和41年、母が果たせなかった「桜花賞」を制します。そのワカクモが生んで子が「テンポイント」でしす。サラブレッドとは、まさに「血」で宿命づけられた生き物、そう、思いませんか?

今回のちょっといい話・・・、
実は、千葉県我孫子市にお住まいの「矢口忠弘」さんから、
資料を送っていただき、それを参考に、クモワカ、ワカクモ、テンポイントの3代の物語をご紹介しました。厩務員の「かずちゃん」は、いま、どうしているのか? 分かり次第、また、ご紹介したいと思います。