10月11日(水)

『放浪の歌人「山崎方代」のちょっといい話』

「放浪の歌人」と言われた山崎方代(ほうだい)という歌人を、ご存知でしょうか?
昭和60年、すでに21年前、70歳でこの世を去っていますが、石川啄木のように亡くなってから人気が出てきた歌人です。
先日、山梨県の生家の跡地が、甲府市によって購入され、そこに歌碑などが設けられていまでも多くのファンが訪れているそうです。
方代が山梨に生まれたのが大正3年。方代は本名です。
学歴などは何もなく、短歌は独学で自らの境地を切り開き、戦争で右目を失明し、左目も0・01の視力。ほとんど形状しか分からないのに、なぜか美人だけは見分けがついた。人懐っこくて、寂しがり屋。でも、髪の毛がいつもぼさぼさで、歯が1本か、2本、ニョキッとのぞいている。薄暗いところで出合ったら、ギョッとする顔なんですね。
生涯独身で、定職につかず、いつも酒と煙草を手放さず、家もなく自由気ままな生活。鎌倉在住の歌人吉野秀雄から可愛がられ、「こんな所でよかったら、いつでもおいでなさい」
その言葉に、方代は「吉野秀雄の弟子になれた」と思ったそうです。ある日、鎌倉市内の寿司屋に誘われます。鎌倉在住の文士が集まる店で、「この方が、大仏次郎先生だよ、この方が、山本周五郎先生だよ」と紹介してもらいました。方代がその先生方と一緒にカウンターに腰を下ろそうとしたとき、大仏次郎から「ここに座るんじゃない、あっちに座っていろ!」と一喝されます。当然です。当時の大仏次郎は、流行作家で、大先生でしたから、名もない方代が席を同じにすることは10年も20年も早かった。方代がしょんぼりと店の隅っこに腰掛けているのを見ていたのが、その寿司屋で見習いだった根岸T雄(てるお)さんでした。方代は根岸さんより、ふた周りも年上で、親子ほどの年の開きがあるのに、2人はなぜか気が合って友達のようによく酒も飲んだそうです。根岸さんは酒を飲んだ席で、方代にこんな約束をします。「方代さん、いつか、オレが独立したら、家を建てるから、そのときは、うちに越してくるんだよ。あんたの部屋も作るから」
その約束から、10年後・・・。根岸さんはお寿司屋さんから独立し、鎌倉の鶴岡八幡宮前で鎌倉飯店を開きました。そして、家を建てたとき、庭の片隅に、プレハブを建てて、約束どおり、方代を呼ぼうとします。
ところが、大反対をしたのが、新婚の奥さんでした。
「あんな人を、住まわせたら、近所迷惑になるわよ」
ところが、この方代、人懐っこい性格で、誰とでも友達になるんです。話が上手。フーテンの寅さんに似た性格。
「方代さんって、面白い人ね!」と近所の奥さんたちの評判を呼び、「方代さん、方代さん、お茶でも飲んでいってよ」
と呼び止められるほど、近所の人気者になっていきます。
庭の片隅に住まわすことを反対していた、根岸さんの奥さんも次第に方代の魅力に惹かれていきます。なによりも、うれしかったのは、根岸さん夫婦のために、歌を短冊に書いて、贈ってくれたことでした。こんな歌なんです。

『茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ。』

<データ>
鎌倉飯店(午後3時ごろが休憩時間)、ご主人の根岸さんが、山崎方代の話をしてくれます。月曜日が定休日
鎌倉市雪ノ下1−12−7
JR鎌倉駅より徒歩10分。鶴岡八幡宮参道沿い。