2月20日(金)

『9時のサプライズ』

今週お送りしている日本の芸能史を彩った女性歌手の生き様を
お届けしている最終日は、『江利チエミ』さんです。
江利チエミさんが、そのデビュー曲「テネシー・ワルツ」に
めぐり合ったのは10歳を越えたばかりの、おさげ髪にリボンを
結んで、米軍キャンプで歌っていたときのことでした。
米軍キャンプでのチエミさんは、そのジャズの歌いっぷりに
米兵を喜ばせ、そのジャズの上手い少女に様々なプレゼントを
渡しました。その中にあった一枚のレコード、それが「テネシー・ワルツ」だったのです。

彼女の噂を聞いたキング・レコードのディレクター、和田寿三さんは、その「テネシー・ワルツ」に息を飲み、すぐにレコーディングをすることにしました。録音の当日、14歳の彼女はトレード・マークのピンクのリボンを黒に変えてスタジオに現れました。9日前に亡くなった母親の喪に服していたのです。
そして昭和27年、江利チエミの「テネシー・ワルツ」が世にでたのです。

二子玉川駅から10分ほど歩いたところにあるお寺「報徳寺」…
その山門の傍に手を後ろに組んで歌うおさげ髪の少女の石像があります。
石に刻まれているのは「テネシー・ワルツ」の音符…
45年間の生涯に渡ってこの歌を歌いつづけた江利チエミさんは
この寺の奥の墓地で静かに眠っています。
少女の石像は、親友の雪村いづみさんの呼び掛けで建てられたもの…
命日には今も、沢山の知人やファンからの花束が届けられます。
その中に必ず、一束のお線香があります。
贈り主は「小田剛一」。
江利チエミさんがその生涯の中で最も愛した男、高倉健さんの本名です。

昭和34年2月16日、浅い春の雨が降り注ぐこの日
日比谷の帝国ホテルで、映画スター高倉健と、ジャズ・シンガー
江利チエミの結婚式が行われました。
仲人の大川博東映社長の挨拶、片岡千恵蔵のテーブル・スピーチ
美空ひばりがお祝いの唄を歌えば、力道山が大きな手で拍手を送る。
祝福する沢山の招待客に挨拶しながら会場を回る二人のバックには
やっぱり「テネシー・ワルツ」が流れていました。
妻は夫を「ダーリン」と呼び、夫は妻を「のに」と呼ぶ甘い生活。
「のに」というのは、「何々だったのに」とか「こうだったのに」
という可愛い妻の口癖からとった愛称でした。
けれども、誰もがうらやむようなこの幸せは、長く続きませんでした。
二人の結婚生活は良く知られているように、12年間で幕を閉じます。
昭和46年9月3日…別々の席上で開かれた離婚会見。
それが終わった直後、チエミさんは、高倉健さんの居所を
探したといいます。
健さんがハワイにいることを知ったチエミさんはすぐに飛びました。
離婚会見の後でもなお、最後の最後まで愛のほころびを
なおそうとつとめたチエミさんの願いはついに叶いませんでした。
二人の別れの原因は様々に推測されています。
漏電による自宅の全焼、父親の違う姉の裏切りによる数億円の
負債。
しかし高倉健さんが、沈黙を守る今、その真相は伏せられたままです。
チエミさんの仕事ぶりは、そこからガラリと変わりました。
次々に取り組んだ舞台公演やショー、『酒場にて』のヒット、
一人で背負った数億円の負債は少しずつ消えていきました。
最後の債権者の一人は彼女にこう語ったといいます。
「あなたとは、もっと違う形で…ファンの一人としてお会いしたか った。」

日本中の人の胸に青空を広げ、そこに夢と希望を浮かべてくれた
江利チエミさんは、昭和57年2月13日…
突然脳出血で世を去ります。
たった一人ぼっちの旅立ちでしたが、その訃報が流れた方々の
楽屋では、いくつもの悲鳴があがったといいます。
2月16日午後一時…
その亡骸は生放送の「テネシー・ワルツ」に送られて
千駄ヶ谷の実家から桐ヶ谷斎場に向かいました。
奇しくもこの日は彼女が最も愛した人の誕生日…
そして二人の結婚記念日でもありました。