スポーツ伝説

4月11日~15日の放送内容

【体 操 内村航平選手】

 3歳から体操を始め、今年1月に33歳となった内村航平選手。体操歴30年、オリンピックには、2008年の北京大会から東京大会まで4大会連続で出場し、個人総合2連覇を含む通算7個のメダルを獲得。世界選手権でも6連覇を果たすなど、数々の偉業を成し遂げました。ただ、記録以上に内村選手がこだわっていたこと、それは「大技への挑戦」です。内村選手の鉄棒演技で代名詞となったのが、H難度の大技「ブレットシュナイダー」。14年に披露したドイツ人選手の名前が付くこの技は、逆さになった状態でバーから両手を離し、空中で体を2回ひねってまたバーをつかむという「後方抱え込み2回宙返り懸垂2回ひねり」のことです。
 内村選手は、この非常に難度の高い大技に18年から取り組み、東京オリンピックでも成功させましたが、その後の技で落下して無念の予選落ちとなりました。その2ヵ月後の21年9月、全日本シニア選手権でも再び「ブレットシュナイダー」に挑み、みごと成功。自分の美学を貫いてみせました。3月12日、内村選手は体操界では異例の「引退イベント」を東京体育館で開催。個人総合でオリンピック連覇を果たしたキングらしく全6種目を順に演技して、30年間の体操人生を締めくくりました。


 
【ラグビー堀越正己選手】

 身長160㎝、66kg。巨漢揃いのラグビー界ではひときわ小さなその体で、誰よりもエネルギッシュにプレーし、正確でブレのないパスを武器にして「日本ラグビー史に残るスクラムハーフ」と呼ばれたのが、堀越選手です。高校ラグビーの強豪・熊谷工業高校でラグビーを始めると、たちまち才能を発揮し全国高校大会にも出場。準優勝を飾ります。1987年に進学した早稲田大学でも入部早々にレギュラーをつかみ、11年ぶりの大学選手権優勝に貢献。その勢いを駆って、日本選手権では社会人チームを破って日本一に輝きました。
 大学4年になるとキャプテンを務め、同学年のライバル・吉田義人選手率いる明治大学と名勝負を演じました。中でも90年の早明戦は、試合終了間際12点差をつけられ、早稲田敗色濃厚の土壇場から、堀越選手のパスを起点にして怒涛の反撃。ロスタイムも含めてわずか4分で同点に追いつき、両校優勝という劇的なフィナーレを演出しました。チームに優勝をもたらすプレーは社会人になっても変わらず、神戸製鋼7連覇のうち4度の優勝に貢献した堀越選手。その勝負強さは日本代表でも発揮されました。91年に開催された第2回ワールドカップ、95年の第3回ワールドカップにも出場し、ラグビー界で“小さな巨人”と讃えられるようになったのです。

   
   
【ラグビー廣瀬俊朗選手】

 廣瀬選手は、学生時代からリーダーが似合う選手でした。高校時代、冬の花園には出場できなかったにもかかわらず、高校日本代表に選出されてキャプテンに就任。その頃からキャプテンシーは折り紙付きでした。慶應義塾大学でもキャプテンを務めたあと、東芝ラグビー部に入部し、入社4年目の2007年、リーグ3連覇中だった名門チームのキャプテンに就任します。ところがその年は優勝を逃してしまい、連覇が途切れます。そんなチームを廣瀬選手が中心になって立て直し、プレーでもチームを引っ張りました。すると09年2月に行われた、トップリーグの08年度年間チャンピオンを決めるプレーオフではMVPに輝き、チームをリーグ王者に返り咲かせた廣瀬選手。翌年も連覇に導き、再び東芝の黄金期を築き上げたのです。
 そのリーダーシップはピッチの外でも発揮され、引退を目前にした16年には、日本ラグビーフットボール選手会の立ち上げに尽力し、初代選手会長に就任。その経歴から“伝説のキャプテン”“キャプテンシーの塊”と呼ばれました。12年、日本ラグビーの歴史を変えるべくやってきたエディー・ジョーンズ日本代表ヘッドコーチが、就任とともに、5年ぶりに代表復帰した廣瀬選手をキャプテンに指名。15年、33歳にして初めてワールドカップ代表にも選ばれ、強豪・南アフリカ代表を破る“世紀の大番狂わせ”では、陰の立役者となったのです。


 
【ゴルフ 倉本昌弘選手】

 身長は164㎝と小柄ながら、海外のトレーニング法や栄養学を積極的に取り入れ、筋骨隆々の体から“ポパイ”と呼ばれた倉本選手。そのパワーが生み出す飛距離と磨き上げた技術を武器に、大学時代には日本学生選手権を4連覇。日本アマチュアを3度制するなど、タイトルを総なめにしました。1980年、中四国オープンでは、プロを押しのけて優勝。史上初のツアー競技アマチュア優勝という快挙を達成します。81年にプロ転向を果たすと、1年目からツアー4勝を挙げた倉本選手。翌82年、日本プロゴルフ選手権では4日間とも60台で回り、初出場初優勝の快挙をやってのけました。
 その後も活躍を続け、ファンを魅了した倉本選手。その真骨頂が、87年のマルマンオープンで生まれた伝説のスコアです。倉本選手はこの大会、4日間トータルで24アンダーの日本新記録を達成したのです。こうして、名実ともに80年代のゴルフブームを牽引した倉本選手。92年のブリヂストンオープンでは、史上5人目の永久シード権を手にしました。その後倉本選手は、戦いの場をアメリカツアーに移すと同時に、選手会長としてアメリカのツアー関係者とのパイプを作り、日本プロゴルフ協会の会長として日本のゴルフ界の発展に尽力しました。



【ゴルフ セベ・バレステロス選手】

 「セベ」の呼び名で親しまれ、世界中にファンがいたスペインの英雄ゴルファー、バレステロス選手。1976年、19歳でヨーロッパツアーの賞金王に輝くと、その後に全英オープン3勝、マスターズ2勝とメジャー大会で計5勝をあげたゴルフ会のスーパースターです。多彩なショットを操ることから“七色のアイアン”と呼ばれたセベ選手は、日本ツアーでも素晴らしい成績を残しています。そのひとつが、ヨーロッパツアー賞金王となった翌年、77年の日本オープンです。
 セベ選手は初日から2アンダーでトップに立つと、その後も首位をキープ。迎えた最終日、2打差につけていた村上隆選手とのデッドヒートに競り勝ち、日本ツアー初優勝を果たしました。この時、セベ選手は20歳7ヶ月。2007年に石川遼選手が15歳で優勝するまで、日本ツアーの最年少優勝記録でした。さらにセベ選手は翌年の日本オープンも制し、42年ぶりの大会連覇を達成しています。攻撃的なゴルフをすることから、出身地スペインにちなみ“闘牛士”の異名でも呼ばれたセベ選手。数々の名場面でゴルファンを魅了し続け、97年に世界ゴルフ殿堂入り。現役を引退した翌2008年に脳腫瘍で倒れ、3年後に54歳の若さで惜しまれつつこの世を去りました。

  
   
来週のスポーツ伝説は……

4/18(月) プロ野球 青木宣親選手
4/19(火) プロ野球 中村剛也選手  
4/20(水) プロ野球 坂本勇人選手
4/21(木) プロ野球 菊池涼介選手
4/22(金) プロ野球 山田哲人選手

お楽しみに!!
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