スポーツ伝説

3月28日~4月1日の放送内容

【カーリング女子  ロコ・ソラーレ】

 1次リーグを5勝4敗の4位で突破し、スイスとの準決勝にも勝利。イギリスとの決勝戦には敗れたものの、日本カーリング史上初のオリンピック銀メダルを獲得した女子日本代表、ロコ・ソラーレ。ストーンの芸術的なコントロールや、投じられたストーンを目標の位置まで運ぶ的確なスイープもメダルを獲得できた大きな要因ですが、もう一つ大きな力になったのが、メンバーの笑顔です。チームの司令塔であるスキップの藤澤五月選手は、「特に“ちな”が、私にポジティブな言葉をかけてくれた」とコメント。“ちな”とはサードの吉田知那美選手のことで、座右の銘は『笑うということは、諦めないという決意』だといいます。ロコ・ソラーレのもう一つの強みはチームワークです。藤澤選手のショットを、リードの吉田夕梨花選手や、セカンドの鈴木夕湖選手がブラシで的確な位置まで運び、アシストした場面が何度もありました。
 そしてもう1人、陰の立役者が、リザーブの石崎琴美選手です。オリンピックに2度出場経験がある43歳の石崎選手は2013年に引退しましたが、ロコ・ソラーレのメンバーから何度も熱心に誘われ、20年9月にチームに加入。7年ぶりに現役復帰をしました。2010年のバンクーバー大会以来のオリンピックに出場機会はありませんでしたが、氷上のコンディションやストーンの事前チェック、試合中はメンバーを観察して、改善点を指摘するなど、献身的にチームを支えました。表彰式でメンバーがメダルを掛け合ったシーンには、もちろん石崎選手も参加。冬季オリンピックでは日本最年長のメダリストとなったのです。


  
【スキージャンプ  小林陵侑選手】

 初出場の平昌オリンピックで世界トップとの差を知り、「自分に足りないことが本当に分かった」と語る、スキージャンプ男子・小林選手。その足りないことを埋め、今シーズンはオリンピック前までにワールドカップで7勝を挙げ、金メダル最有力候補として北京に乗り込みました。しかし、自然とも戦わなければならないのがスキージャンプの難しさ。ノーマルヒルではジャンプに不利な追い風に悩まされ、世界のトップジャンパーが軒並み100mを超えられず、苦戦を強いられます。そんな悪条件の中、小林選手は決勝の1回目、104.5mを飛んでトップに立つと、続く2回目、同じく追い風の中でも99.5mをマーク。金メダルを獲得。兄の潤志郎選手と抱き合いました。このメダルは今大会、日本勢金メダル第1号。またジャンプ個人の金メダルは、1998年長野大会の船木和喜選手以来、24年ぶりのことでした。
 小林選手はさらにラージヒルで、個人2冠に挑戦します。1回目、最長142mを飛んでトップに立ちますが、続く2回目でノルウェーの選手に逆転され2位。惜しくも2冠には届きませんでしたが、堂々の銀メダルを獲得しました。ジャンプで1大会複数メダルは、日本勢では2014年ソチ大会で達成した恩師・葛西選手以来の出来事です。
    
  
   
【スピードスケート 高木美帆選手】

 前回2018年の平昌オリンピックでは、1000mで銅、1500mで銀、団体パシュートで金メダルと、大会3個のメダルを獲得したスピードスケート・高木選手。あれから4年、北京オリンピックでは、500m・1000m・1500m・3000mと団体パシュートの5種目にエントリーしました。短距離から長距離まで滑る理由は「純粋に速くなりたいから」。5種目すべて、表彰台に立てる実力を持っているからこそのチャレンジです。最初のレース・3000mは、初めて滑るリンクの特徴をつかみきれず6位に終わります。しかし続く得意の1500mでは、後半のカーブで膨らんだものの、トップにわずか0秒44差の2位となり、2大会連続の銀メダルを獲得しました。これでオリンピック通算4個目のメダルを手にした高木選手は、冬季の歴代日本選手で最多メダル数となりました。
 高木選手が次に迎えたレースは500mです。本来は中距離を得意としている高木選手にとって、最も実績の少ない500mへの出場は連覇が懸かる団体パシュートや得意の1000mが控えていたため、最後まで悩んだと言います。最終的に500m出場を決めると、自己ベストを更新する会心の滑りで2位。高木選手自身、驚きの銀メダルでした。団体パシュートは、一緒に滑った姉の菜那選手が金メダル寸前の最終コーナーで転倒し、悔しい銀メダル。しかし気落ちすることなく、最後の1000mでオリンピックレコードを記録し、個人種目で初の金メダルに輝いた高木選手。1大会4個のメダルは日本女子歴代最多。通算7個のメダルは、夏冬通じて日本女子最多でもあります。


 
【ノルディック複合 渡部暁斗選手】

 スキージャンプとクロスカントリースキーの総合成績で順位が決まる、ノルディック複合。33歳の渡部選手にとって、今回の北京大会が5度目のオリンピックでした。渡部選手は、2014年のソチ大会と、18年の平昌大会・個人ノーマルヒルで銀メダルを獲得しています。しかしそれで満足する渡部選手ではありません。平昌大会後に肉体改造に取り組みましたが、これが裏目に出てしまいます。筋肉で体が重くなった分、得意のジャンプでは思うように飛距離が伸びず、クロスカントリーでは持ち前の走力を発揮できなくなったのです。しばらく不振が続き、この4年間が「すごく長く感じた」という渡部選手。一時は引退がちらついたこともありました。それでも、すでにトレーニングに取り入れていたピラティスを通じて、自分の体をもう一度細かい部分まで見つめ直した渡部選手。体のバランスが整うと見合った技術を発揮できるようになっていき、北京の切符を掴んだのです。
 北京大会最初の種目、ノルディック複合・個人ラージヒル。渡部選手はジャンプで135mを飛んで5位につけ、後半のクロスカントリーに臨みます。トップから54秒遅れでスタートしたにもかかわらず、前半で先頭集団に追いつきスタジアムに先頭で戻ってきた渡部選手。最後までデッドヒートを繰り広げ、1位とわずか0.6秒差の3位でゴールし、銅メダルを獲得しました。3大会連続メダルは、冬季では日本選手2人目の快挙です。そして団体のラージヒルでは、クロスカントリーのリレーで第3走を務め、4位で受け継いだ順位を一時はトップに押し上げます。最終的に2位でアンカーの山本涼太選手に託し、3位でゴール。日本は実に28年ぶりとなる、ノルディック複合・団体メダルを勝ち取ったのです。



【スピードスケート 森重航選手】

 森重選手は北海道別海町出身の21歳。8人兄弟の末っ子はスケートが好きすぎて、両親の送迎で自宅から20キロ離れた町営リンクに通い、朝から晩まで滑っている保育園児がいると評判になったほどです。その後、森重選手は親元を離れて山形県の高校に進学。しかし2019年7月17日、森重選手が19歳の誕生日を迎えた4日後、母・俊恵さんが57歳の若さで他界します。母の最後の言葉は、「スケート、頑張れ」。この最後の会話でスケートに懸ける思いがより大きくなったという森重選手は、ここから急成長を遂げていきます。
 森重選手は、昨年10月の全日本距離別選手権の男子500mを初めて制すと、12月のワールドカップでも初優勝。無名の存在からまたたく間に世界のトップ選手となり、北京オリンピック代表の座もつかみ取りました。迎えた北京オリンピック本番。男子500m、メダルが懸かる2本目はスタートでやや出遅れましたが、得意のカーブで加速。その勢いのままゴールを切り、34秒49のタイムで銅メダルを獲得しました。この種目で日本の男子選手がメダルを獲ったのは、2010年のバンクーバー大会以来、3大会ぶりのことでした。


   
来週のスポーツ伝説は……

4/4(月) プロ野球 堀内恒夫投手
4/5(火) プロ野球 与田剛投手  
4/6(水) プロ野球 赤星憲広選手
4/7(木) プロ野球 三瀬幸司投手
4/8(金) プロ野球 摂津正投手

お楽しみに!!
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