スポーツ伝説

1月17日~21日の放送内容

【プロ野球 荻野貴司選手】

 千葉ロッテマリーンズのリードオフマンとして活躍し“幕張の韋駄天”の異名を取る荻野選手。走攻守3拍子揃った選手として、2010年にプロデビュー。1年目は開幕から46試合で25盗塁という衝撃的なデビューを飾りました。新人王も当確と言われましたが、5月に右ヒザを負傷。手術を受けたもののシーズン中に復帰できず、タイトルも棒に振りました。その後もケガに泣かされ、戦線離脱を繰り返した荻野選手。初めて規定打席に達したのはプロ10年目の19年でした。翌20年も開幕から26試合連続出塁をマークするなど好調でしたが、右大腿二頭筋を損傷。シーズン終盤に復帰したものの出場は53試合にとどまり、チームも優勝を逃しました。デビューから20年までの11年間、荻野選手は毎年ふたケタ盗塁を記録しながら、フル出場したシーズンは一度もなかったのです。
 21年、開幕から離脱することなく好調を維持した荻野選手は、1番打者としてヒットを量産。出塁数も増え、6月に早くも12年連続でふたケタ盗塁をマークしました。また先頭打者ホームランを6本記録。荻野選手が全試合1番打者として活躍したことで、チームも2年連続で優勝争いができたのです。10月30日に行われたシーズン最終戦・北海道日本ハム戦では3回に内野安打で出塁すると、初球から走り二塁への盗塁に成功します。これでチームメイトの和田康士朗選手らと並ぶリーグトップの24盗塁目を記録し、自身初の盗塁王に輝きました。36歳での盗塁王は史上最年長。169安打を放ち最多安打の二冠に輝きましたが、本人が何より喜んだのは、プロ12年目で初めて達成した「全試合出場」でした。


  
【プロ野球 九里亜蓮投手】

 プロ1年目から、先発ローテーションに加わった広島カープ・九里投手。中継ぎに回ることもありましたが、2016年からのリーグ3連覇にも貢献しました。しかし勝ち星は17年の9勝が最高で、18年から3年連続で8勝止まり。8年目の21年は「2ケタ勝利」が大目標。背番号を「12」から「11」に変え、心機一転先発の柱としてチームを引っ張っていきました。ところが5月19日の巨人戦では、試合前日に新型コロナウイルスに感染した3選手を含め、一軍登録メンバーから17人の選手を入れ替える非常事態となりました。
 この試合で先発を任された九里投手。開幕からバッテリーを組んできた坂倉将吾選手もベンチを外れたため、急きょ若手捕手の中村奨成選手とバッテリーを組むことになりました。中村選手は一軍の試合でマスクをかぶるのはこれが初めて。最初はサインが合わない場面もありましたが、二人はイニング間に意見交換をして回を重ねながらバッテリーの呼吸を合わせていきます。すると九里投手は6安打2失点、完投勝利でチームの危機を救ったのです。しかしその直後の5月23日に九里投手自身も新型コロナ感染が判明。登録抹消となり練習ができない隔離期間を過ごしますが、9月29日の阪神戦で自身初の10勝目を挙げると、10月29日、ホーム最終戦の東京ヤクルト戦で阪神・青柳晃洋投手に並ぶ13勝目を挙げ、初の最多勝のタイトルを獲得しました。


 
【サッカー 大久保嘉人選手】

 昨年11月、日本サッカー史にその名を刻んできたストライカー・大久保選手が引退会見を開きました。サッカーの名門、長崎・国見高校時代からスター街道を歩んだ大久保選手。高校三冠達成に加えて、インターハイ・全国選手権で得点王に輝き、鳴り物入りでセレッソ大阪に入団。1年目の2001年、期待に応えJリーグ優秀新人賞を受賞します。04年のアテネオリンピックでは日本代表の主力として活躍し、スペインやドイツの海外クラブでもプレーしました。
 中でもストライカーとしての本領を発揮したのが、13年に移籍した川崎フロンターレ。前人未到の大記録、3年連続得点王の快挙を成し遂げました。現役20年目の昨年、15年ぶりに古巣・セレッソ大阪に復帰。開幕から5試合で5ゴールと、変わらぬ決定力を見せつけた大久保選手。しかしその後は出場機会も減り、惜しまれつつの引退発表となったのです。大久保選手がJ1で積み重ねたゴール数は、歴代最多の191得点。放ったシュート数も1135本と、これも歴代最多です。さらにもう1つ、通算イエローカード104枚もJ1歴代最多。もっともこれも「とにかく勝ちたい」という負けん気の強さと、勝負への熱意の証しです。



【サッカー 阿部勇樹選手】
 
 プロデビューから24年。名ボランチとして活躍した浦和レッズの阿部選手が、昨シーズン限りでユニフォームを脱ぎました。1998年ジェフ市原から、当時J1最年少の16歳333日でデビューを果たすと、2年目の99年には早くもプロ初ゴールを記録します。そんな阿部選手が2003年に出会ったのが、名将イビチャ・オシム監督です。阿部選手は21歳の若さでオシム監督からチームキャプテンに指名されると、監督の掲げる「考えて、走るサッカー」を体現する選手として活躍。リーダーシップも発揮し、それまでリーグ下位が指定席だったチームは、この年年間総合3位に躍進しました。05年にはナビスコカップを制覇。これがジェフにとってはJリーグ初タイトルで、阿部選手もベストイレブンに初めて選ばれます。06年、オシム監督が日本代表監督に就任すると、阿部選手も代表に選出。“オシム・チルドレン”と呼ばれ、日本代表を牽引しました。
 その後、オシム監督は病に倒れ、岡田武史監督が就任しましたが、阿部選手は変わらず日本代表で存在感を発揮します。10年のワールドカップでは、中盤の底で攻守をつなぐ「アンカー」という役目を担い、決勝トーナメント進出に貢献。ワールドカップ終了後、当時所属していた浦和レッズからイングランドのレスター・シティに移籍。12年浦和に復帰すると、かつてオシム監督のもとでアシスタントコーチを務めたミハイロ・ペトロヴィッチ監督からキャプテンに指名されます。阿部選手は13年から4年かけて139試合連続フル出場を達成。“ピッチ上の監督”としてチームを鼓舞し続けました。



【サッカー 玉田圭司 選手】 
 
 昨年の11月11日午前11時11分、J2・Vファーレン長崎の背番号11、玉田選手の引退が発表されました。玉田選手は、名古屋グランパスでも日本代表でも11番をつけ、23年間ファンを沸かせたストライカーです。高校までは代表とも無縁だった玉田選手ですが、プロデビューを飾った柏レイソルで世界的な名レフティ、ブルガリア代表のストイチコフ選手と出逢います。1994年のワールドカップ得点王で、同じレフティのストイチコフ選手に刺激を受け、Jリーグを代表するフォワードに成長しました。
 その後、名古屋グランパスに移籍すると、ストイコビッチ監督からお前がJリーグでナンバーワンだと高く評価され、攻撃の中心を担います。2010年には13ゴールを決め、名古屋のJ1初制覇に貢献。優勝決定試合でチームを優勝に導くゴールを決めたのは玉田選手でした。J1通算では99ゴールと大台にあと一歩届きませんでしたが、J2も含めると通算133ゴール。日本代表ではジーコ監督時代の04年に代表デビューすると、その年のアジアカップでは、準決勝のバーレーン戦で値千金の2ゴールを挙げ、日本の大会連覇に貢献しました。06年のドイツワールドカップでは、王者ブラジル相手にゴール左45度の位置から強烈な左足シュートを決め、世界のサッカーファンを驚かせます。試合に敗れたものの、美しく衝撃的なゴールとしてファンの記憶に刻まれました。



来週のスポーツ伝説は……

1/24(月) プロ野球 佐々木朗希投手
1/25(火) プロ野球 奥川恭伸投手  
1/26(水) プロ野球 宮城大弥投手
1/27(木) プロ野球 紅林弘太郎選手
1/28(金) プロ野球 及川雅喜投手

お楽しみに!!
BACK
NEXT