スポーツ伝説

11月22日~26日の放送内容

【プロ野球 1974年日本シリーズ】

 巨人の10連覇を阻止して20年ぶりにセ・リーグを制した、与那嶺要監督率いる中日ドラゴンズ。そして阪急ブレーブスとのプレーオフに勝ってパ・リーグを制した、金田正一監督率いるロッテオリオンズ。1974年の日本シリーズは、初顔合わせのフレッシュな対決になりました。このシリーズ、両軍のエース、中日・星野仙一投手と、ロッテ・村田兆治投手は、ともに抑えに回りました。中日の本拠地・名古屋の中日球場で行われた第1戦は、同点の9回にロッテが1点を勝ち越しましたが、その裏村田投手が打たれ、中日が逆転サヨナラ勝ち。第2戦は逆に、ロッテ打線がリリーフした星野投手を攻略。初戦で打たれた村田投手が後続を抑え、ロッテがタイに持ち込みます。舞台を東京・後楽園球場に移した第3戦は中日が勝利。第4戦は勝ち越した直後の7回から村田投手がマウンドに上がり、3イニングをピシャリと抑えてロッテが勝利。第5戦もロッテが勝って日本一に王手を掛け、舞台は再び名古屋へと移りました。
 このシリーズで“打のヒーロー”になったのが、ロッテ・弘田澄男選手でした。身長163㎝の小兵選手でしたが、入団2年目の73年、この年に就任した金田監督に才能を見出され、外野のレギュラーに定着して活躍しました。チームが日本シリーズ進出を決めたこの年のプレーオフでは大不振に陥っていましたが、日本シリーズでは第4戦に同点タイムリーと勝ち越しのホームランを放ち、第6戦には同点で迎えた延長10回に、リリーフの星野投手からみごと勝ち越しの二塁打を放ちます。この日は先発に回った村田投手が最後まで投げ切り、ロッテが日本一に。エースの働きと、シリーズMVPに輝いた小さなヒーロー弘田選手の活躍で、金田監督の体が宙に舞いました。


  
【プロ野球 1995年日本シリーズ】

 阪神・淡路大震災が発生した、1995年のプロ野球・日本シリーズは、
『がんばろうKOBE』を掲げ、パ・リーグを制したオリックス・ブルーウェーブとセ・リーグを制したヤクルトスワローズが日本一をかけて対戦しました。ヤクルトは“ID野球”を掲げる野村克也監督。オリックスは“仰木マジック”で知られる仰木彬監督の名将対決に加え、野村ID野球の申し子であるキャッチャー、古田敦也選手が、この年の首位打者・打点王・盗塁王に輝いたオリックスのイチロー選手をどう封じるかが最大の見所でした。シリーズ開幕前から、野村監督は心理戦を仕掛けます。「イチロー封じは、内角に始まり内角に終わる」とマスコミに作戦を披露。イチロー選手もおのずと「内角」を意識することになります。実は、これが野村監督の作戦だったのです。
 心理戦を仕掛ける一方で、ヤクルトは緻密なデータ分析も行っていました。シーズン中のイチロー選手のバッティングデータから、ヒットを打ったコース、凡打したコースを細かく分析。その結果、浮かび上がってきたのは、イチロー選手は低めのボールを転がしてヒットにするのが上手い、典型的なローボールヒッターということでした。「だから高めで勝負することに徹底した」とシリーズ後に明かした野村監督。シリーズ開幕前に強調していた内角攻めはカムフラージュで、真の作戦は「高めか低めか」だったのです。その結果、イチロー選手はこのシリーズ19打数5安打、長打はホームラン1本のみ。チャンスメイクの盗塁も0、打点はわずかに2と“イチロー封じ”から本来のバッティングを取り戻すことが出来ず、ヤクルトが4勝1敗で日本一に輝いたのです。


 
【プロ野球 2001年日本シリーズ】

 2001年の日本シリーズ、大阪近鉄バファローズ対ヤクルトスワローズの対決は、まさに正反対と言えるチーム同士の対決でした。この年の近鉄は、“いてまえ打線”と呼ばれた強力打線を誇り、12年ぶりにパ・リーグを制覇。チーム打率・ホームラン・総得点は12球団トップでした。対するヤクルトは、キャッチャー・古田敦也選手の巧みなリードにより、12球団一のチーム防御率でセ・リーグを制しました。迎えた大阪ドームでの初戦、古田選手のリードが冴え、ヤクルトのエース・石井一久投手が8回を無失点ピッチング。古田選手は終盤にダメ押しホームランを放って攻守に活躍し、ヤクルトが先勝します。第2戦では近鉄の猛打が爆発。この年打点王を獲得した中村紀洋選手や、当時のプロ野球タイ記録・シーズン55本のホームランを放ったタフィ・ローズ選手にホームランが飛び出し、近鉄が9対6で勝利。1勝1敗のタイに持ち込みました。
 第3戦からホームの神宮球場に戻ったヤクルトは、ここから一気にシリーズの流れをつかみます。古田選手が徹底的にマークしたのは、5番打者・礒部公一選手でした。この年磯部選手は、リーグトップの得点圏打率・4割1分7厘を記録するなど、ペナントレースでは勝負強いバッティングで優勝に貢献。古田選手は、礒部選手を抑えれば近鉄の得点力は下がるとにらみ、巧みなリードで翻弄しました。結果、第4戦で礒部選手の打順は7番に下がり、第5戦ではついにスタメン落ち。シリーズ通算16打数ノーヒットと、結局1本のヒットも打てずに終わりました。これが響いて第3戦以降、近鉄打線は3試合でわずか5点しか取れず、ヤクルトが3連勝。4勝1敗で、21世紀最初の日本一を決めたのです。



【プロ野球 2011年日本シリーズ】
 
 2011年に行われた、福岡ソフトバンク 対 中日の日本シリーズ。第1戦・第2戦は、中日が敵地・福岡で延長戦の競り合いを制して2連勝。ソフトバンクもナゴヤドームで行われた第3戦で勝ち、中日の王手を阻止します。続く第4戦。ソフトバンクが1点リードで迎えた6回、この年19勝を挙げて、最多勝に輝いた先発のホールトン投手が突然乱れ、ノーアウト満塁の大ピンチ。ここでソフトバンクは、左のサイドスロー・森福允彦投手がマウンドに上がります。森福投手はこの年、チーム最多の60試合に登板。防御率1.13と信頼感は絶大でした。一気に逆転を狙う中日は、第1戦で決勝ホームランを放った小池正晃選手を代打に送ります。森福投手は落ち着いて小池選手を4球で空振り三振。続く平田良介選手を2球で浅いレフトフライに仕留めます。投げたのは6球すべて変化球。シュートとスライダーをほぼ同じフォームで内角と外角に投げ分けてくる森福投手に、中日のバッターは翻弄されました。
 2アウトにこぎつけましたが、依然、満塁のピンチ。ここでバッターは中日の頭脳、キャッチャーの谷繁元信選手でした。初球ボールのあと、打席を外してあえて間を作った谷繁選手。森福投手もグラブを外してユニフォームの裾を直し、自分のリズムを守ると、2ボール2ストライクからの5球目、シュートでショートゴロに打ち取り、絶体絶命のピンチをみごと無失点で切り抜けてみせました。“森福の11球”と呼ばれ、伝説となったこの回のピッチング。続く7回も3者凡退で抑え、チームに勝利を呼び込んだのです。このシリーズは第7戦までもつれましたが、最後はソフトバンクが勝利。森福投手は、第3戦から5連投で日本一に貢献しました。



【プロ野球 2020年日本シリーズ】 

 2017年から昨年まで日本シリーズ4連覇を果たした、福岡ソフトバンクホークス。ポストシーズンで無類の強さを発揮するのが、中村晃選手です。昨年、ロッテとのクライマックスシリーズ第2戦では、2打席連続アーチを放ち、7年連続ポストシーズンの試合でホームランを放つという偉業を達成。日本シリーズ進出に貢献し、クライマックスシリーズMVPに輝きました。そんな“ミスター・ポストシーズン”を師匠と仰ぐのが、昨年、6年目でブレイクした新星・栗原陵矢選手です。栗原選手は中村選手の野球に対するストイックな姿勢に共鳴して自主トレに参加。師匠の教えを忠実に守った結果、昨年、レギュラーの座を勝ち取り、リーグ優勝にも貢献。しかしクライマックスシリーズでは2試合ともノーヒットと、大活躍した中村選手とは対照的な結果になってしまいました。
 迎えた日本シリーズ第1戦。5番・ライトで先発出場した栗原選手は、2回に巨人のエース・菅野智之投手に先制2ランを浴びせ、その後も2本のヒットを放ち、3打数3安打4打点。中村選手も8回にダメ押しのタイムリーを放ち、2人でチームの5得点すべてを叩き出してチームを勝利に導いたのです。第2戦では栗原選手が5打数4安打と打ちまくり、第3戦では中村選手が先制2ランを放つなど3打点。2人のバットがチームを乗せ、ソフトバンクは2年連続4勝0敗のストレート勝ちで、日本シリーズ4連覇を飾りました。

 

来週のスポーツ伝説は……

11/29(月) パラ水泳  鈴木孝幸選手
11/30(火) パラ陸上  道下美里選手  
12/1(水) パラバドミントン 梶原大暉選手
12/2(木) パラバドミントン 里見 紗李奈 選手
12/3(金) 車いすラグビー日本代表

お楽しみに!!
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