スポーツ伝説

11月15日~19日の放送内容

【プロ野球 斎藤佑樹投手】

 高校時代は甲子園のマウンドで躍動し、2006年早稲田実業高校を夏の選手権初優勝に導いた斎藤投手。顔をつたう汗をハンカチで拭いながら投げる様子から“ハンカチ王子”と呼ばれ、人気を集めました。早稲田大学では東京六大学野球史上6人目の通算30勝300奪三振を達成する偉業を成し遂げ、北海道日本ハムファイターズに10年のドラフト1位で入団。1年目に6勝を挙げ、2年目には開幕戦プロ初完投勝利を飾るなど、順調なプロ生活に思えました。しかしその後は相次ぐ故障と戦う日々となり、プロ11年間で15勝。19年を最後に二軍暮らしが続き、10月1日についに引退を表明したのです。
 ファンに愛され、メディアの注目度も高かった斎藤投手だけあって、引退試合にあたる登板機会が2度もありました。1度目は引退発表から2日後、二軍本拠地・鎌ケ谷スタジアムでのラスト登板でした。プレー中に涙が止まらず1度プレートを外す場面もありましたが、最後は空振り三振。この直後ハグを交わしたのが高校の後輩、清宮幸太郎選手だったことも話題になりました。そして2度目は、一軍の本拠地・札幌ドームでのマウンドです。10月17日のオリックス戦、斎藤投手は7回、日本ハム1点リードの場面で登板。打者1人に投げ、結果はフォアボールでしたが、全力で投げた7球でした。


  
【プロ野球 雄平選手】

 東北高校の高井雄平投手といえば、“高校ナンバーワンサウスポー”として高校野球ファンには有名な存在でした。投げては最速151キロ。バッターとしては通算で36本のホームランを放ち、ドラフト前から投打ともに高い評価を受けていました。ただ、当時は“二刀流”の発想がプロの世界になく、高井選手もはじめはピッチャーとして、2002年のドラフト1巡目でヤクルトに入団します。高卒投手にもかかわらず1年目から5勝をマークし、将来のエース候補として期待されましたが、シーズン勝ち星はこの1年目が最多。以降は勝ち星も伸びず、ピッチャーとしては通算18勝で、09年オフに野手への転向を決意したのです。
 登録名を本名の高井雄平から「雄平」に変えたのは11年。その翌年、打者として1軍デビューを果たします。さらにパンチ力のある打撃を磨くと、14年にはついにレギュラーに定着し打率3割1分6厘、ホームラン23本、90打点の好成績で、外野手のベストナインに選出されました。さらにこの年、「通算10勝以上した選手が、シーズンホームラン20本以上」という59年ぶり史上4人目の快挙を達成。雄平選手は球史に名を残す二刀流選手になったのです。その後、18年にも打率3割越えをマークするなど打者として活躍。しかし今シーズンは開幕から1軍出場の機会がなく、19年目の今年、打者として通算打率2割9分1厘の数字を残し、ついにバットを置きました。


 
【プロ野球 岩田稔投手】

 阪神タイガース・岩田投手が大阪桐蔭高校2年生の冬に発病した1型糖尿病。不摂生などが主な原因となる2型糖尿病とは異なるタイプの糖尿病で、毎日数回は注射を打ってインスリンを補充し続けなければ、命にも関わる難病です。病気を理由に卒業後に進むはずだった社会人チームへの入団内定が取り消され、悔しい思いを味わった岩田投手。関西大学に進学後は最速151キロのストレートと縦に割れるカーブを軸に、多彩な変化球を操る左腕として注目され、2005年大学・社会人ドラフトの希望枠で阪神に入団。プロ野球選手になる夢を叶えました。入団3年目の08年に10勝をマーク。この活躍もあって、翌09年のシーズン前に行われたワールド・ベースボール・クラシック日本代表にも選ばれ、2度目の世界一に貢献したのです。
 難病を抱えながら、阪神ひと筋16年で60勝を積み重ねた岩田投手は、08年から同じ難病を抱える人たちとの交流会を重ね、病院にも頻繁に足を運ぶようになります。09年からは支援団体を通じ、1勝を挙げるたびに10万円を寄付するなど社会貢献にも尽力し、同じ病に苦しむ人たちのために「岩田稔基金」を設立しました。



【プロ野球 山井大介投手】
 
 10月13日、バンテリンドーム ナゴヤで行われた中日対ヤクルト戦。この日、先発のマウンドに立ったのは、今シーズン限りで引退を表明した山井投手でした。バッター1人だけの限定登板で、ヤクルトの塩見泰隆選手に真剣勝負を挑んだ山井投手。1球1球思いを込めて投げ、全部で5球。最後は127キロのスライダーで、塩見選手を空振り三振に仕留めました。山井投手と言えば、今も語り草になっているのが、中日が53年ぶりの日本一を達成した、2007年の日本シリーズ第5戦です。この大事な試合の先発を託された山井投手は、序盤から絶好調。日本ハム打線を手玉に取り、1人のランナーも許さないまま9回を迎えました。ところが中日・落合博満監督は、ピッチャーを守護神・岩瀬仁紀投手に交代。山井投手のパーフェクト達成は夢と消え、この交代劇は物議をかもしました。
 しかし実際は、自ら交代を申し出たという山井投手。日本一を決めるマウンドはやはり、シーズン中、ずっと最後を締めくくってきた岩瀬投手で……そんな思いがあったといいます。岩瀬投手は9回を3人で抑え、日本シリーズ史上初の「継投による完全試合」という大記録が達成されました。それから6年後の13年、横浜スタジアムで行われたDeNA戦に先発した山井投手は、味方が挙げた大量点をバックに快調なピッチングを見せ、プロ野球史上77人目のノーヒット・ノーランを達成。仲間との絆を大切にした20年でした。



【プロ野球 西浦颯大選手】 

 今年引退したオリックス・バファローズの西浦選手は、明徳義塾高校の主軸として甲子園でも活躍。俊足強肩の外野手として、2017年のドラフト6位でオリックスに入団します。1年目のデビュー戦でプロ初安打・初盗塁をマークし、2年目には早くも開幕スタメンに抜擢されるなど順調なスタートを切りました。そのプレーで特に光ったのは、ガッツ溢れる守備です。昨年9月20日の埼玉西武戦。初回に2アウトながら一・二塁のピンチで、ライナー性の打球が西浦選手の守るセンターに上がります。これを背走して追いかけると、最後はフェンスに激突しながらつかみ捕る大ファインプレーをみせたのです。さらにこの日はホームランも放ち存在感を見せつけました。
 ところがそれからわずか2ヵ月後の昨年11月。国指定の難病、特発性大腿骨頭壊死症を発症。これからの活躍が期待されていた矢先の出来事でした。担当医から、8割方復帰はできないと言われた西浦選手でしたが、過酷な治療に立ち向かい、骨盤の移植などの大手術を経験。その後は育成選手としてリハビリを続け、復帰を目指してきました。しかし残念ながら症状は回復せず現役引退を決意したのです。9月28日、二軍戦での引退試合。9回の守備で、日常生活では松葉杖が必要な状態ながら、定位置のセンターまで杖なしで歩き守りについた西浦選手。涙ながらにたどり着いたその場所は、1年前にファインプレーを演じたのと同じポジションでした。

 

来週のスポーツ伝説は……

11/22(月) プロ野球 1974年日本シリーズ
11/23(火) プロ野球 1995年日本シリーズ  
11/24(水) プロ野球 2001年日本シリーズ
11/25(木) プロ野球 2011年日本シリーズ
11/26(金) プロ野球 2020年日本シリーズ

お楽しみに!!
BACK
NEXT