スポーツ伝説

12月26日~30日の放送内容

【プロ野球 工藤公康投手】
 
 現在、福岡ソフトバンクホークスの監督を務める工藤投手は、現役時代に2度にわたってFA権を行使。いずれも移籍先で目覚ましい活躍を見せました。1981年、ドラフト6位で西武ライオンズに入団した工藤投手は、エースとして黄金時代に貢献し、94年までの13年間で日本一を8回も経験しました。しかし、恩師と慕う根本陸夫管理部長が西武を退団し、ライバル球団である福岡ダイエーホークスの球団専務 兼 監督に就任すると、工藤投手も94年オフにFA宣言し、ダイエーへ移籍。当時、毎年Bクラスに低迷していたダイエーを、99年に南海時代以来26年ぶりのリーグ優勝、さらに35年ぶりの日本一へと導きました。
 ところがそのオフ、年俸交渉を巡って球団フロントに不信感を持った工藤投手は、再びFA権を行使。巨人・長嶋茂雄監督が福岡の工藤投手宅を突然訪ねて口説いたこともあり、巨人入りを決断します。そして移籍初年度の2000年と02年に日本一を経験。所属した3球団すべてで日本一の快挙を達成しました。29年間のプロ生活で実に11度の日本一を経験し、“優勝請負人”の異名をとった工藤投手。ソフトバンクの監督としても就任1年目で日本一に輝きましたが、今年は日本ハムに大逆転優勝を許しただけに、来年のリベンジに注目です。


 
【サッカー 市川大祐選手】

 市川選手は1998年、17歳と322日というサッカー日本代表の最年少出場記録を打ち立てました。当時清水エスパルスに所属していた市川選手は、まだ高校生。あれから18年経ち、36歳になった今年、現役引退を表明しました。
 市川選手は98年3月21日、清水エスパルスのユースチームから昇格し、Jリーグデビュー。その直後に日本代表に初選出され、4月1日の日韓戦で国際Aマッチデビューを果たします。結局、ワールドカップ本番直前に代表から漏れましたが、当時の日本代表はフランスワールドカップに向けて新戦力を求めており、市川選手は”日本の秘密兵器”として注目を浴びました。一躍時の人になった市川選手ですが、急激な環境の変化からくるプレッシャーに追いつめられ、2000年のシドニーオリンピック日本代表の座を逃してしまいます。しかし、02年の日韓ワールドカップで代表に復帰。チュニジア戦では中田英寿選手の得点をアシストし、勝利に貢献しました。この時、市川選手は22歳。でもこの先は、苦難の連続でした。03年に右ヒザ半月板を負傷し、一年で二度も手術。翌年は右ヒジの脱臼に加え、左ヒザの半月板も損傷。出場機会を逸し、J1の甲府・J2・J3・JFL・四国リーグとあらゆるカテゴリーのクラブを渡り歩きました。体が動く限り、どんな環境だろうとサッカーを続けたい、という思いを持ち続けていた市川選手。「プレーできる体があるなら、来年もプレーしたかった…」熱い想いを抱き続けながらの、現役引退発表となりました。
   
   
       
【サッカー 森崎浩司選手】

 2度のJ2降格、そして3度のJ1優勝。激動の歴史をたどってきたサンフレッチェ広島には、いつも森崎選手の姿がありました。ユース時代から数えて20年、サンフレッチェひと筋でプレーしたミッドフィルダーは、2000年に双子の兄・和幸選手と共にサンフレッチェ広島に入団。「Jリーグ史上初の双子選手」として話題になりました。
 04年には、アテネオリンピックに出場。フル代表入りも期待されましたが、オーバートレーニング症候群に襲われ、練習どころか日常生活すらままならない状態が何度も続きました。そこで救いの手を差し伸べてくれたのが、二人の恩師の存在。その一人は、06年から広島を指揮したペトロヴィッチ監督。そしてもう一人が、12年に就任した森保一監督です。森保監督のおかげで、浩司選手は少しずつ体調も回復。ついには試合にも復帰し、その年、クラブ史上初のJ1年間総合優勝にも貢献しました。もちろんこの二人の恩師のほかに、双子の兄・和幸選手の支えも忘れてはなりません。弟が体調を崩すたびに、時に厳しく、時に力強く励まし続けた和幸選手。森崎兄弟が二人一緒にプレーする最後の試合となった10月29日のホーム最終戦では、試合前に弟のゴールを予言。浩司選手はその“予言”通り、見事にゴールを決め、自らの引退に華を添えたのです。
 
  
   
【サッカー天皇杯 鹿島・G大阪】
 
 単一年度にJリーグの年間総合優勝・Jリーグカップ戦・サッカー天皇杯の3タイトルをすべて獲得する「三冠」は、Jリーグ発足以降、たった2チームしか達成できていません。史上初めて三冠を達成したのが、2000年度の鹿島アントラーズ。そして2チーム目は、14年度のガンバ大阪です。
 Jリーグを制することも、カップ戦を制することも、もちろん難しい偉業ですが、一発勝負のトーナメント戦である天皇杯は、下位チームによる番狂わせが起きやすい大会です。Jリーグの公式戦が終わった後で行われる天皇杯の場合、選手によっては来季の移籍が決まっていたり、契約が不透明な状況だったりするため、モチベーションを保つのが難しいとも言われています。そんな中、今年度の天皇杯では、一体どんなドラマが生まれるのか。2017年元日、午後2時キックオフが今から楽しみです。

   
  
【サッカー ドラガン・ストイコビッチ選手】

 2000年1月1日に行われた、天皇杯決勝戦。2000年代の幕開けを飾る記念すべきこの試合で決勝に進出したのは、4年ぶりの天皇杯制覇を狙う名古屋グランパスエイトと、初優勝を目指すサンフレッチェ広島でした。実は、1996年の元日に行われた天皇杯決勝でも両チームは対戦。3対0で名古屋が勝って初優勝を飾っています。一方、広島は翌年も決勝に進出しましたが、ヴェルディ川崎に敗れ、2年連続で準優勝。この試合は、悲願の初優勝を懸けての戦いでした。
 この試合で芸術的なスーパープレーを披露したのが、“ピクシー”のニックネームを持つ、ユーゴスラビア代表のエースストライカー、ドラガン・ストイコビッチ選手です。後半11分、ストイコビッチ選手が右サイドから放った絶妙なクロスに、呂比須選手がダイビングヘッドで合わせて先制ゴール。さらに後半37分、ストイコビッチ選手はゴール左でパスを受けると、相手選手3人をドリブルで軽やかにかわし、決定的な2点目をゴールに突き刺しました。これぞまさに、妖精(ピクシー)の舞。国立競技場の観客を大いに沸かせたストイコビッチ選手は引退後、08年から6シーズンにわたって名古屋の監督を務め、10年にはチームを悲願のJリーグ初制覇に導いています。


   
来週のスポーツ伝説は……

  1月2日(月) 箱 根 駅 伝  “山の神”列伝
  1月3日(火) 大  相  撲  石浦将勝関
  1月4日(水) 全国高校ラグビー 伝説の決勝戦
  1月5日(木) 全国高校サッカー 伝説の決勝戦
  1月6日(金) 全国高校サッカー 得点王
            
                       お楽しみに!!
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