スポーツ伝説

12月28日~1月1日の放送内容

【大相撲 北の湖理事長】

 『土俵の充実』をテーマに人気を復活させた日本相撲協会・北の湖理事長が、昨年11月20日に亡くなりました。享年62。2012年1月に理事長に復帰した直後、直腸がんが見つかりました。しかしそれでも、「1人では10歩も歩けない」という状態になるまで理事長として記者対応を続けました。
 現役時代は、18歳7カ月という当時の史上最年少で新入幕。対戦は年長の力士ばかりでしたが、相手を倒すと振り返らずに引き上げる。その態度がふてぶてしいと、ファンからは非難をされてきました。しかし実は、自分に厳しく他人には甘かったという北の湖関。引退後、弟子には甘く、稽古も自主性を重んじていました。「型にはめたら個性が伸びず、相撲が小さくなる」というのが持論。しかし6人の関取を育てたものの、横綱・大関を育てられなかったのだけは、残念の一語に尽きるに違いありません。
 


【プロ野球 松沼博久・雅之選手】

 同じチームに所属して、チームの低迷期から黄金期を構築した松沼兄弟。1978年オフ、巨人がドラフト外で白羽の矢を立てたのは松沼兄弟でした。一方、発足したばかりの西武もより多くの人材を獲得する必要があり、両球団が松沼兄弟に出した条件は、いずれも「2人一緒」の入団。しかし西武には、これに加えて「1年目から一緒に1軍で使う」という切り札がありました。博久投手は「元々、僕は巨人ファン。伝統のユニフォームに袖を通すことは魅力。でもスタートしたばかりの西武の方がおもしろそうだ」と、西武入団を決意します。
 博久投手のプロ初勝利は、79年4月24日の南海戦。これは球団初勝利でもあり、西武にとっても永遠に刻まれるメモリアルデーとなりました。このルーキーイヤー、チームは最下位でしたが、博久投手が大活躍。当時のパ・リーグは2シーズン制で前期は6勝だったものの、後期は新人とは思えない安定感で10勝。計16勝で新人賞に輝きました。雅之投手も4勝を上げており、2人で計20勝を記録。83年8月23日の近鉄戦では、雅之投手のあげた1勝で兄弟で100勝目となり、プロ入り以来の目標を達成。「次は200勝」という新たなテーマを掲げましたが、その後はけがなどもあり、181勝で現役生活を終えました。


 
【プロ野球 鹿取義隆選手】

 リリーフを中心に、巨人・西武で19シーズン、勝利の方程式を構築した鹿取投手。サイドスローからキレのあるストレート、シンカーを武器に、多くのピンチを救いました。
 中学時代は捕手でしたが、高校時代にブルペンでボールを受けている際、監督から「ピッチャーをやってみろ」と言われて投手に転向。大学卒業後は社会人に進む予定が、78年にドラフト外で巨人と契約をかわします。王監督時代の5シーズンで、275試合に登板。86年は救援だけで101イニングを記録した鉄腕です。あまりに多く起用されるため、王監督が主審に告げる『ピッチャー鹿取』が流行語になりました。89年オフには、自ら志願してトレードで西武へ。抑えに固定されると、最優秀救援投手の初タイトルを獲得。契約更改でフロントから1億円を提示された際には「それは主役の金額。抑えがその額をもらうと、次は引退しかない」と固辞し、その手前の金額にしてもらったという伝説も残っています。
 


【プロ野球 高木豊選手】

 横浜DeNAの前身、低迷期の大洋が一躍スポットを浴びたのは、1985年。近藤貞夫監督のアイディアで、スーパーカートリオを結成したのも大きな要因でした。主に1番、セカンドとして盗塁を量産。チームをけん引したのは高木選手です。
 85年のキャンプで、就任直後の近藤監督に呼び出された高木選手。「50個アウトになってもいいから、100個走れ」と、足で勝つ方針を示されます。その結果、このシーズンのチーム盗塁数は188個に。スーパーカートリオだけでも148個にのぼりました。内訳は、高木選手が42盗塁。2番の加藤博一選手は48盗塁、3番の屋敷要選手が58盗塁でした。1チーム3人の選手がシーズン40盗塁を記録したのは、日本プロ野球史上ただ1度。加えて、セ・リーグ最多のシーズン最多3塁打5本を3人そろってマークしました。
 


【サッカー 三浦知良選手】

 昨年11月11日、午前11時11分、サッカーJ2の横浜FCは、三浦選手との契約を更新したと発表しました。2月26日には49歳の誕生日を迎える、プロ31年目のキング・カズ。今季の試合に出れば、その時点でJリーグ最年長出場記録を更新することになります。契約更新の発表が11が並ぶ日時に行われたのは、11が三浦選手の背番号であり、本人にとってもこだわりの数字だから。最初に11番をつけたのは、苦節4年の末にプロ契約を勝ち取ったブラジル時代。それ以来、11は三浦選手の大切なラッキーナンバーとなり、帰国後にJリーグ・ヴェルディ川崎で活躍した時も、現在の横浜FCでも、常に背中には11があるのです。
 レジェンドと呼ばれる三浦選手も、かつて引退に危機に直面したことがありました。1998年、ワールドカップ・フランス大会が行われ、三浦選手も代表候補に選ばれましたが、最終選考で代表から外され、屈辱の帰国。さらに当時所属していたヴェルディ川崎が経営上の問題から、三浦選手に戦力外通告を行ったのです。その時、「誰も自分のことを知らない所でもう一度勝負してみよう」と、クロアチアのザグレブに移籍。その時に出会ったある35歳のベテランがこう言いました。「サッカー選手は、年齢に関係なく常に成長するもの。低落など存在しない」。それ以来、常に進化を求め続ける姿勢が、三浦選手の長い現役生活を支えているのです。

 


来週のスポーツ伝説は……

 1月4日(月) 大 相 撲 千代丸一樹関・千代鳳祐樹関
 1月5日(火) 大 相 撲 嘉風雅継関
 1月6日(水) 大 相 撲 勢翔太関
 1月7日(木) 大 相 撲 琴勇輝一嚴関
 1月8日(金) ラグビー 松島幸太朗選手

                       以上の5選手をご紹介します。
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