12月14日
■栄光の陰に台湾野球〜埼玉西武ライオンズ・渡辺久信監督■
25年前の夏、全国高校野球群馬県大会。
決勝で敗れた前橋工業のエースが渡辺久信だった。
最後は連投の疲れからコントロールを乱し、押し出し四球でサヨナラ負けしたが、
長身でムチのようにしなる右腕からものすごい速球を投げた。
二宮清純氏は実際に見た投手の中で、江川卓は別格として、津田恒美、槙原寛巳に
匹敵する剛速球投手になると確信したという。
その年の秋、西武が1位指名した高野光(東海大-ヤクルト、故人)の抽選に外れて
前橋工・渡辺久信を指名した時、「西武はクジに外れてよかったのでは」と思ったという。

事実、入団2年目から頭角を現したナベQ(渡辺智男の入団で「渡辺久」になって以来の愛称)
は工藤公康や郭泰源を差し置いて、エースとして君臨した。
86年に16勝、88年に15勝、90年に18勝を挙げて3度の最多勝に輝いたが、そのいずれの年も
西武はリーグ優勝〜日本一をなし遂げている。

真っ向から勝負する本格派で、決め球はほとんどストレート。
それだけに球威が落ちた後、技巧派にうまく転向することができず、
92年の12勝を最後に1ケタ勝利が続いた。97年オフに西武を戦力外となり、
ヤクルトに移籍するが、わずか1勝に終わって、再び戦力外通告を受ける。
98年、渡辺は元チームメイトの郭泰源に招かれ、西武の東尾修監督(当時)にも
勧められて、台湾プロ野球「嘉南勇士」のコーチに就任する。
ところが「勇士」の監督は渡辺のピッチングを見て「まだまだ現役でいける」と
渡辺に現役続行を促した。コーチ兼任投手となった渡辺だが、登板するたびに
好投を続け、シーズン成績は18勝7敗、防御率2.34。最多勝と最優秀防御率の
タイトルを獲得。最多の201奪三振は台湾プロ野球新記録となり、その年の
シーズンMVPに輝いた。

渡辺は、台湾の3年間で35勝22敗4セーブの数字を残して、日本に戻ってきた。
選手としての経験だけでなく、コーチとして過ごした3年間が今につながっているという。
台湾は日本のプロ野球よりレベルが低い、「都落ち」と蔑む者もいないわけではない。
しかし、レベルの低い台湾だったからこそ「コーチング」に関して学ぶことも多かった。
サイドスローの投手に教えるために、自らの登板時にサイドで投げてみせたという。
(それでも完封してしまった)
「なんでわからないんだ」という上からの目線ではなく、相手のレベルまで下りて
指導することを学んだ。このときの体験が今につながっているという。
話題の著書「寛容力」にも台湾時代の経験が綴られている。

台湾から帰って野球解説者をつとめた後、04年に西武の二軍投手コーチに就任。
07年に二軍監督をつとめ、伊東勤前監督辞任により、08年から一軍の指揮を執る。
渡辺監督はライオンズの若手に「自信」を植え付けた。
典型的なのが、日本シリーズ第7戦で貴重な盗塁を決めた片岡易之だ。
彼は初回に盗塁死している。普通は萎縮してしまうが、ナベQ監督はどんどん
チャレンジさせる。失敗は成功の素。短所には目をつぶり長所を伸ばす。
おかわりくんこと中村剛也には「お前の長所はパワーだ。三振してもいいから
思い切って振って来い」と送り出し、彼はリーグ1位の162三振と、リーグ1位の
46本塁打を記録した。
若き獅子たちが自信を持ってプレーしていた東京ドーム。
どっちがホームチームだかわからないゲームをしていた。

26年ぶりのBクラスに転落したライオンズが1年で日本一に返り咲くなど、誰が
予想できただろう。ソフトバンク・ホークスの最下位も想像できなかった。
これだから戦国パ・リーグは面白い。
渡辺監督とともにライオンズの黄金時代を築いたスラッガーがソフトバンクの
新監督に就任する来年、いきなりホークスが優勝してもおかしくない。






 
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