【伏見俊昭・ふしみとしあき】競輪 (2009年6月1日〜2009年6月5日オンエア)
お話を伺って
毎週様々なアスリートをゲストにお迎えしてお送りしているスポーツリアルトーク。
この番組ホームページでは放送では触れることができなかった部分も含め、
インタビューの内容をお伝えしていきます。
さて、この週のゲストは競輪の伏見俊昭選手です。
木曜日の「マイチャレンジソング」では伏見選手の“意外な一面”が明らかになってしまいました。
【伏見俊昭】
福島県出身 1976年生まれで現在33歳。
高校卒業後、競輪学校を経て1995年プロデビュー
2001年・2007年の賞金王。
競輪の世界だけではなく自転車競技でも活躍し、
2004年アテネオリンピック・自転車競技チームスプリントにて銀メダルを獲得。
2008年世界自転車選手権出場、北京オリンピック・自転車競技ケイリン出場。
競輪との出会いは?
小学校2年生の頃です、将来の夢と言う文集で「競輪選手になりたい」と書いたんです。
家は結構貧しかったので、プロ選手になって親を楽にさせてあげたいなと思ったのがきっかけでしたね。
小さいころに見たテレビだったんですけど、中野浩一さんが当時すごい有名で
テレビの中で「日本人初の1億円プレイヤー」と紹介されていたんです。
それを見て「競輪選手って日本で一番すごいんだな」と感じたんです。
僕は小学校の頃、野球と自転車が好きだったんです。
当時プロ化されているスポーツは野球と競輪しか知らず、
自転車なら「早く漕げば選手になれる」と思ったんです。
頑張った分だけより夢が叶いそう、と思えたのも大きいですね。
でも小学校中学校と自転車部がなかったんです、それで競輪選手になる為に体作りをしようと思い陸上をやっていたんです。
後に知ったことなんですが、実は中野浩一さんも陸上をやられていたと聞きまして、知らずに間違いではない選択をしていたんだなと思います。
最大の挑戦は?
自転車競技でオリンピックを目指した事です。
競輪では年に一度全プロ大会(全日本プロ選手権自転車競技大会)と言うのがあるんです。
それは普段やっている競輪とはまた違って200メートルとか、1000メートルとか、3人で走るものもあれば大勢で走るものもあったりと自転車競技の大会なんです。
そこでたまたま自分が優勝したんです、優勝したら今度はナショナルチームと言うものに推薦してもらい世界の大会に出場したんです。
そしてナショナルチームとして世界戦を経験してその先にあるものは何か?と考えた時にオリンピックが見えたんです。
1996年のアトランタオリンピックも一応選考会は走らせてもらったんですが、8位でダメで次のシドニーには出たいと強く思うようになりそこから2足のわらじでやりました。
それからナショナルチームの一員として世界を転戦して、シドニーオリンピックの日本の代表枠を取ったんです。
しかし選考会でコンマ何秒の差で2位になってしまいシドニーへは行けなかったんです。
それがあったのでアテネオリンピックへの出場が決まった時は「嬉しい」という気持ちより「今回は選ばれて良かった」という安心感が大きかったですね。
アテネオリンピックでは「ケイリン」と「チームスプリント」の2種目に出させていただいたんですが、実は個人で走る「ケイリン」でメダルを狙っていたんです。
しかし日程的に「チームスプリント」の方が先で、そちらは世界戦のタイムも6位とか7位くらいでメダルを取れるタイムを出した事はなかったんです。それで自分たちでもダメもとだ、と言う感じでみんなリラックスしていたんです。
それが、大会前に高地トレーニングをしていて下りてきてアテネでいざ走ってみたらタイムが出て銀メダルを取れてしまったんです。
ものすごく嬉しかったんですが、その気持ちの緩みから2日後に行われた「ケイリン」の方では予選敗退してしまいました。
最大の壁・挫折は?
2000年シドニーオリンピックで出場権を取ってきたにもかかわらず、代表になれなかった事です。
その時は「もうやめよう」というより「なんで俺自転車やってるんだろう?」と言う感じでしたね。
選考会では2着に敗れたんですが、その1か月前の全プロ記念大会と言う選考に関わるレースで優勝していたし、前年のナショナルチームでの実績もありました。
トータルすると代表に選ばれてもおかしくない成績を残していたので、代表発表の時に当然自分の名前が呼ばれるだろうと思っていたんです。
しかし僕の名前は呼ばれなくて、目の前が真っ白になりました。
切り替えて練習しようとしても「練習してもオリンピック出れるわけじゃないからな」と思ったりもして、当時は自転車を見るのも嫌になりましたね。
また頑張ろうと思えるのに1か月2か月かかりましたね、練習はしてるんですが身に入らない見かねた先輩や後輩、仲間たちが「そんなんじゃダメ」だと言ってくれたんです。
それで「お前にとってオリンピックがすべてか?競輪選手になりたくて自転車始めたんだろ」と言われた時に、オリンピックの事はひとまず置いておいてこれから続くであろう競輪人生を全うしようと。
それでも1週間くらいは「じゃあ競輪選手って何だ?」と考え込みました、それで最終的に「競輪選手で一番になろう」と思いました。
翌年賞金王になったんですが、悔しさをバネにすることはものすごい大事な事だと思いました。
僕は悔しさ・挫折があったからこそ、そのあとものすごい急激に成績が上がったんです。
そういう経験が自分を強くしてくれたんだな、と思います。
マイチャレンジソング
ここ最近ではいきものがかりの気まぐれロマンティックです、この曲を聴いてレースに臨んでいます。
ホントに今すごく好きで、3人のグループで作る曲・歌、全てでテンションが上がりますね。
地元が福島の郡山なんですが、3月に郡山でのライブチケットを知り合いの方に頂いてたまたまライブを見たんです。
それでライブを見たらものすごいファンになって「また行きたい」って思って、今まではその時に流行っている曲をいろいろ聞いていたんですが、それからはいきものがかりさん一本で聞かせていただいています。
レース前はアップテンポな曲を聞いてテンションを上げるんですが、この気まぐれロマンティックは自分にものすごくマッチしていて、曲の雰囲気がものすごくテンションを上げてくれるんです。
この曲を聞いてから勝率がものすごくいいのでこれからも聞き続けたいと思います。
未来へのチャレンジ
競輪選手を続けているうちは毎年賞金王のタイトルをめざしていきたいというのと、まだ明確ではないんですが次のロンドンオリンピックも出場できたらいいなと思います。
出場できたとしたら36歳になりますが、陸上の朝原さんが昨年36歳で銅メダルを取ったのでそれを見た時に「年齢じゃない、気持ちだな」と思ったんです。
僕も36でもチャンスがあればいけるんじゃないか、と思ったんです。
しかし僕たちの場合は競輪をやりながら自転車競技もやらなくてはいけないのでどうしても2足のわらじになってしまうんです。
国内を走って海外遠征もして、時差があるところから帰ってきてすぐに競輪のレースに走らなければいけない事もあります、そう思った時に36歳の体力でどの程度やれるのか?ちょっと厳しいのではないか?というのが不安材料でもあるんです。
目標を高く持つ事は悪いことではないので、常に高い所に目標を持って競技人生を送っていきたいですね。
あと自分の目標としている先輩が46歳でG1レースにも出ているので、そういう先輩方を見習って1年でも多くやっていきたいと思います。
スタジオに入って来られるなり、その身体の分厚さ、腕の筋肉、
お顔やファッション、すべてから醸し出されるワイルドな雰囲気に
かなり圧倒されてしまいました。
お話をうかがえば、中身はさらにワイルド&パワフル。
これほど”男くさい”ゲストは、初めてと思われるほど。
しかーーし、そんな男の中の男、伏見選手にもありました…意外な一面が。
そう、マイチャレンジソングであきらかになった、”いきものがかり”の大ファンということ♪
彼らの魅力を語る伏見選手はもちろん”熱い男”でしたが…。
すでに10億円以上の賞金を稼いでいる競輪会のスター選手、
しかし、まだまだいろんなことをやってくれる、そんなとてつもない
パワーを感じました!
(政井マヤ)