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【ヨーコ・ゼッターランド】元バレーボールアメリカ代表 (2009年8月10日〜2009年8月14日オンエア)


毎週様々なアスリートをゲストにお迎えしてお送りしているスポーツリアルトーク。
この番組ホームページでは放送では触れることができなかった部分も含め、
インタビューの内容をお伝えしていきます。
先週のゲストは、バレーボール元アメリカ代表のヨーコ・ゼッターランドさんでした。
アメリカ代表として2大会連続でオリンピックに出場したヨーコ・ゼッターランドさんに貴重な体験の数々をお聞きしました。



【ヨーコ・ゼッターランド】
1969年アメリカ・サンフランシスコ生まれ、東京都出身。
日本人の母とスウェーデン人の父の間に生まれ1975年6歳の時に母親とともに日本に移住。
文京区立第十中学校、中村高校では全国大会に出場し早稲田大学に進学。
1991年にアメリカ国籍を選択し、アメリカ代表としてバルセロナ、アトランタと
2度のオリンピックに出場し、バルセロナオリンピックでは銅メダルを獲得。
1996年から日本のVリーグで活躍し、1999年に現役引退。
引退後はスポーツコメンテーターとして活躍、
2007年日本バレーボール協会理事に就任。





【バレーボールとの出会いは?】
小学校の頃です。母が半世紀以上前、東洋の魔女と言われた東京オリンピックよりも少し前の頃、れこそ映像も残っていないような頃に日本代表として世界選手権を戦い金メダルを取って来た選手だったんです。
それでバレーボールが何となく近いところにあったんです、それで母の友達の方たちや昔のチームメートなどが集まってワイワイガヤガヤやっているときに「陽子ちゃんもちょっとプレーしない?」と言われてちょっと大人のバレーボールをかじらせていただいたのが小学校5年生の頃です。
実はそれまでバレーボールが大嫌いだったんです。自分の親がバレーボールに夢中になっているのを見た時に、自分に向けられる表情と違う事に気付いたんです。
それでその時にバレーボールに対してものすごい嫉妬心を覚えたんです。「なんてお母さんこんな楽しそうな顔しているんだろう?」と思って。
それで母に連れられて行った体育館では隅っこの方で「私は将来デザイナーになるの」とか言ってお絵かきをしていたんです、
しかしその時に人数が足りなくて「入ってみない?」と言われたんです、その時に「えー」とか思いつつもやはり子供ですから気にかけてもらえて誘ってもらえるのが嬉しいんですよね。
周りの方も「上手だいよ上手いよ」と言ってくれ、それからですね「私バレーの選手になる」そういう風に決めました。
 〜生まれはアメリカですが、当時は日本に来た戸惑いもあったのでしょうか?
自分自身がいったい何者なのか?と言うのを子供なりにいろいろ探っていた時期でもありまして、アメリカ人のはずなのにアメリカ人になりきれない、日本人でもあるんだけど日本人にもなりきれない、私ってこの社会の中でどういう存在なんだろう?って言うのを感じしていました。
そんな時にバレーボールと出会って、コートの上で自分も何か出来ることと出来る場所というのがあるんだ、と気付いてそれがより一層「楽しい」と言う事と合わさってバレーにのめりこんでいったきっかけになったと思います。


最大の挑戦は
大学卒業直前22歳になろうとしていた時期です、その時にどうしてもオリンピックに出たいという気持ちが出てきまして、アメリカのナショナルチームのトライアウト(公開入団テスト)を受けに行ったのが、私の人生にとって最大のチャレンジだったかな、と思います。
小学生で日本に来た時まだ日本の国籍を持っていなかったんです、しかし自分は日本語をしゃべって日本の文化で育ち日本の学校にも行っていましたので「私は日本代表になるんだ」と思っていたんです。
その思いはアメリカ代表のトライアウトを受けるまで「どうにかならないかな?」と心に残っていたんです。
国籍の問題はクリアしたのですが、当時は高校を卒業してから実業団に行かずに大学に進学すると日本代表の道はほぼ無い時代。
強い大学ならまた別だったのでしょうが、それも私が選んだ道だったので(早稲田大学入学当初バレー部は6部リーグ)大学を卒業するころには「代表を目指そうという気はないんでしょう?」「本気ではないんでしょう?」という見方があったと思うんです、それでお誘いをいただく事もなく「どうしよう、どうしよう」と悩んでいる時、母が「アメリカでトライしたら?」と言われ「えー!!」とビックリして「私英語の成績あまりよろしくないんですけど」なんて言っていましたね。
たまたま私が大学に進学した時、当時のバレー部の総監督をしてくださっていた先生がもともとアメリカのナショナルチームのお手伝いをしていた方で、その時に知り合ったスタッフの方がたまたまアメリカの女子の監督になったんです。
ずっとお付き合いがあったらしく私の事を「アメリカの国籍を持っていて背の高いセッターの子がいる」なんて話をしていたらしいんです、私は後になって聞いたんですがね。
母や監督たちの頭の中にそのルートはすでにあったと思うのですが私は急に聞いたので驚くばかりでしたよ。
それで「弱いチームに行ったからヨーコはダメになった」ともし言われたら「チームがダメだから」と言われているのと同じように聞こえてしまうんですね、一緒にやっているチームメートですし自分が選んだチームがそのような評価をもらうのはホントに悔しいと言う気持ちがありましたのでそう言われないように、何とか頑張ろうと思ってチャレンジしました。
なんとか合格してチャンスをもらったので後は骨をうずめるつもりで頑張りました、語学の心配とかはありましたがバレーボールのルールは国際共通のものですし「大丈夫自分がしゃべれなくてもボールがしゃべってくれる」と思っていましたね。
オリンピックに行きたい、選手になりたい、金メダルを取りたいという思いは多分どこも共通のもの、それまで自分の培った技術をそこに持って行って、その時必要とされてばそこにフィットすると思っていましたので、それがこのような形でうまく回ったのは良かったと思っています。
 〜アメリカ代表として戦うという心の整理や葛藤は?
その時はなかったですね「日本を捨ててアメリカに行った」とか言われましたけど「私のやりたい事は何なのか?」「自分にとって人に迷惑をかけないベストの道は何なのか?」と探っていた時に「チャンスがあってそのチャンスをつかんでないが悪い!」と言う気持ちでしたね。
「どの国から出る」と言うのは一つの形式であって「どういう選手になりたいか?」「どういう人間になりたいか?」と言う事を追い求めていくことに専念しようと思いました。



最大の壁・挫折は?
「オリンピックにどうしたらいくことができるんだろう?もう出来ることってないんじゃないかな?」と大学の時に思っていた時期ですね。
私の母がいつもモノの例えをする時に「壁が叩いて開かないなら横から回ってみたら」と言っていたりして、真っ向勝負で挑むことも大事なことだとは思うんですよね、でもちょっと見方をかえてみたりすると意外と突破口が開けてくるケースってあると思うんですよね。
それがこの場合はアメリカに行ってトライアウトにチャレンジするという事でしたけども、そこで何の気兼ねもなくオリンピックに向けて練習できるようになると「アレって壁だったのかな?」と言う風に思えましたね。
その次に着た壁は私にとって2度目のオリンピックとなるアトランタオリンピックの前です。
オリンピックの前に監督とミーティングをするんですけど
「君はスターティングのセッターとしてもどれぐらいできるかわかっているし、控えの選手としてもバルセロナの後の4年間どうチームに貢献していたかも良くわかっている。しかし今いる正セッターは長きにわたって控えの経験がないから、両方できる君が控えに回ってほしい」
と言われたんです、その時は挫折と言うよりはガッカリしてしまいまして、私は「何をやればいいんですか?」と聞いたら「今のままでいい」と言われ、心の中で「今のままでいいわけがないじゃない」と納得が出来なかったですね。
それでスポーツ心理学の先生と話をして「オリンピックの最終日に金メダルを取ったコートに立っているかもしれないじゃない、もし今やめたりやろうと言う気持ちになれなかったとしたら、そういうチャンスを逃してしまうかもしれないよ」と言われた時に、それまでチャンスを作り出そうとやってきたはずなのに自分の手で放り投げてしまうのは良くないなと思いましたね。
もう一度原点に立ち返って、オリンピックに行って最高のプレーをしてどんな所に行って最高の選手になり、そして社会を構成する一因としてキチンとした人間になる、と思って目標を立てて2度目のオリンピックに臨みました。


マイ・チャレンジソング〜思い出の曲は?
岡本真夜さんのtomorrowです。ちょうどそれが2度目のオリンピック、アトランタを前に私が落ち込んでいる時期で、「もうやめようかな、これでオリンピックに行っても仕方ないかな」と母に電話をまして愚痴を言ったんです。
そうしたら母は「何言ってるのよ」と言う風になりまして、電話を切った後に“コレは急いで買わなくてはならない”となったらしくCDなんて買ったことない人なのに初めてCDと言うものを買いに行きまして、手紙と一緒に送ってくれたんです。
それで何度も繰り返し聞いたんです、歌詞も力強いですしそれから曲も明るいですよね、テンポもいいですし。
私たちは良く曲を聞きながらイメージトレーニングをしたりそういう事をします、それでこの曲を聞いて“今日がだめでも明日がある”と“さっきトスを失敗しても次は成功する”とそういう風に思いながら練習に励むことができました。


今後の大きな夢は?
この言葉がもしかしたら耳慣れないかもしれないのですが、スポーツの“メディアトレーニング”コレを中心に勉強を重ねてスポーツの方に携わっていければな、と思います。
日本では馴染みは無いかも知れないんですがアメリカに渡り学んだ事があり、アスリートに対して『技術・プレー魅せる事もさることながら、言葉でもスポーツの素晴らしさを伝えられるのが真のトップアスリートだ』と言う風に教えるんです。
その為にプロのメディアトレーナーがいてビジネスとして確立されているんです。テレビ・ラジオなどそういう媒体で、こういう時にはこういう言葉の使い方で伝えればわかりやすいですよ、と言葉の選び方を教えてくれるんです。
また、身体の姿勢であったりとか、向きであったり、目線であったり、も細かく教えてくれます。
日本のインタビューでは『もうちょっとこういう風に言えばもっとわかりやすく伝わるのに』とか『言っている事は正論なんですがなかなか伝わらない』と言うような事もありますので、何かそういったことの手伝いが出来るようになったらいいな、と思います。
スポーツを知らない方が取材にいらっしゃることもあります、それを『スポーツの事を知っていて当然でしょ』と言うのではなく、選手自身現場の方から橋渡しをする事も大切なことだと思うんです。言葉と合わせて、両者にとって良い関係を構築していきそれにプラスになることメディアトレーニングにはあるのではないか?と考えています
あと、現在は日本バレーボール協会の理事も務めさせていただいています。一番の若輩者と言う事で現場により近いという事で、どういう風にしていったら現場がよりよく改善させるか?と言う事を提案させていただいています。
私はアメリカで選手経験もしましたのでその経験をたくさん活かしたいです。しかし外国でいいと言われているモノをそのまま日本に持ち込んできてもアレルギー反応を示す方もいるかもしれません、そこは日本のいいものをベースに合わせて行ってよりよいものが作れるようにしていけたらいいな、と思います。


インタビューを終えて
父の国と母の国…二つの文化を受け継ぎ、二つの国の間で揺れ動く。目立つ故に日本で馴染めなかった小学生時代…私もハーフなので、お父様がスウェーデン人のヨーコさんの気持ちが少し分かるような気がしました。

キリリとした表情、ポニーテールでコートの中央で冷静なトスをあげるヨーコ・ゼッターランドさんを私がテレビで観たのは高校生の時。なんて素敵なんだろう!と思うと同時に、日本側での参加じゃないなのが残念…。と思った記憶があります。

伺ってみると、日本代表に入れず、あきらめかけていたところ、オリンピックへの門戸を開いてくれていたのがアメリカだったんですね。ここでは”ハーフ”ではなく”ダブル”であることが道を開いてくれたんですね。

自分の信じる道を行く為には、『王道』を外れること、既定路線から離れることをいとわないヨーコさん。その道すじは常識を覆すほどにアウトローと言ってもいいかもしれません。

しかし、自分の中で大切にするものが明確であり、自信と信頼があるからこそ、その道を進み、それでも才能を開花させ続けたのでしょうね。

そんな強さを秘めていらっしゃるのでしょうが、お会いしてみると、意外なほど(クールなイメージが強くて…)柔らかい物腰の方。言葉を選びながら丁寧にお話してくださる姿が印象的でした。

最後に、また新たなチャレンジをひそかに始めていらっしゃると、教えてくださいました。
どんなチャレンジか…また伺えるのを楽しみにしています!!

(政井マヤ)




政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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