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【小宮山悟(こみやま・さとる)】元・千葉ロッテマリーンズ投手(1週目) (2009年12月28日〜2010年1月1日オンエア)


毎週様々なアスリートをゲストにお迎えしてお送りしているスポーツリアルトーク。
この番組ホームページでは放送では触れることができなかった部分も含め、
インタビューの内容をお伝えしていきます。
先週のゲストは日米通算19年の現役生活を終えたばかり元・千葉ロッテマリーンズの小宮山悟投手でした。



【小宮山悟】(こみやま・さとる) 
千葉県出身、1965年生まれ44歳。
2浪の末に入学した早稲田大学でエースとして活躍し東京6大学リーグを沸かせると、
1990年にドラフト1位でロッテオリオンズに入団。
抜群のコントロールを武器に千葉ロッテ・横浜ベイスターズで活躍し
2002年メジャーリーグ・ニューヨークメッツに挑戦。
2004年からは古巣・千葉ロッテに復帰、2005年日本シリーズ制覇に貢献。
今シーズン終了とともに現役を引退、
日米通算19年の現役生活にピリオドを打ったばかり。




【19年間の現役生活お疲れさまでした、現在の心境は?】
長いことやったといえば長いことやったのでしょうけど、実際に満足したのかと言うとそうではないので、ただやめて振り返った時に自分で自分をほめてあげれるだろうとは思っていますけど。
 〜満足度を%で言うとどの位でしょうか?
自分の中では満足過ぎるくらいにやったので、100%満足していますという事は言えると思うんですけど、ただ「もうちょっとできたろう」「あん時ああしておけばよかった」と思う事は多々あったので、まぁ微妙な感じですかね。
 〜今期での引退と言うのはどの位から考えていたんですか?
年も年なので、ここ何年かは毎年のように最後だって言うつもりでシーズンに臨んでいたので実際にはっきり「もう辞める」となったのは5月の中旬ぐらいに監督とちょっと話をしてこれでいい、と伝えた瞬間ですね。
監督に「力を貸してくれ」と言われてロッテに戻った経緯があったので、その監督に力を貸すことができないだろう、という判断を自分の中でしたので、その時点で自分の中では引退している、という位置づけでしたね。
なのでそれ以降は引退している身でプレーしていたので変な感じは変な感じでしたけどね。
 〜最後のマウンドと言うのは胸に迫るものと言うものはあったんですか?
色んな事思い出すんだろうな、と言うのはあったんです。しかし、色んな事思い出すというのがすでにファームで若い選手と練習したりしているときにすでにあっったので、自分の中では回想し終えていたので。
そして状況が雨の中での登板で、「試合が行われるかどうか?」と言うところからスタートしましたのでここで投げていいのかな?と言う気持ちの方が強かったですよね。
普通もうちょっと色んな事を思い出しながら感慨にふけってなんていう思いなんだろうけど全くなかったですね、しかも一球で、あっさりしたものでしたから。
偶然そういう状況で登板してそういうことになりましたけれども、僕の中では試合に参加できただけで十分だったので、おまけみたいなものですよね。
最終的には監督がチームを離れるという事があっての今シーズンで僕もやめますということなので、ボビーも僕の事を特別な選手だって言ってくれてましたから彼の期待には応えられたんじゃないかな、と言う気持ちはあります。


【小宮山さんと野球との出会いは?】
小学校2年生の頃ですね、小学校2年生の時に親父がグローブを買い与えたところからなんですが。3つ上の兄貴がいてぜんそくで病弱だったので、基本的には長男中心なのでその兄貴のために親父が息子に野球をと言う事でグローブを買ってきて、3つ下の次男である僕がへそを曲げるだろうという事で“ついでに”グローブを買ってきたというのが始まりなんです。
初めてチームでやりだしたのは4年生の時で普通のどこにでもある少年野球チームですね、軟式のボールで近所の悪ガキ集めてという感じでした。
 〜そのころからピッチャーだったのでしょうか?
投げるのを専門でやっていましたね。
 〜当時の夢はプロ野球選手でしょうか?
その頃僕らぐらいの年の子供の夢って大体野球選手ですから。しかし本気かどうかと聞かれたらたぶん本気度は0だったと思います。
自分でこんな事を言うのも変だと思いますがその小学校のレベルでは頭一つ二つ抜けていました。しかしみんなと同じように「プロ野球選手になりたいんだ」という思いだけは口にしていたのものの、でも実際には「プロ野球選手にはなりたいけれどなれないだろうな」と言う思いの方が強かったですね、ちょっと小生意気な小僧だったので「何でもいいやそんなもん」くらいに思ってましたね。
 〜それが本気でプロと言うものが見えてきたのはいつくらいからですか?
それこそプロに入る寸前ぐらいのときです、大学生の時に学生の日本代表に選ばれたりして、そこで他所の大学の連中なんかと話をしたりする機会があって、その時“早稲田の小宮山の凄さ”みたいな事を面と向かって言ってくるんですよ。
それで僕の中での“早稲田の小宮山”の評価よりも彼らの方が遥かに評価が高いので「これはひょっとしたらプロになれるかな?」と言う思いにはなっていましたよね。
それがドラフトの年の6月ぐらいです。


【小宮山さんにとってこれまでで最大の挑戦は?】
ふざけた子供だったという話はしたんですが、そのふざけた子供が高校の時に本当にふざけたことを口にして「早稲田で野球がしたい」と、それができればいいんだと言う事に関するいろんなことが最大のチャレンジだったと思います。
 〜早稲田で野球というのは一番何が大きかったんでしょうか?
将来的に高校の教員になれれば、と言う思いがあったので大学の付属の高校に通ったんですけどふざけた子供ですから成績も芳しくなく大学の内部推薦がどうも怪しい、と言うような状況だったので「じゃあ、どっか違うところで」と言う考えになった時に、たまたま早慶戦を見たんです。
早慶戦を見て、『大学に進学しなくてはいけない』→『好きな野球も続けたい』→『東京六大学で野球をすれば願ったりかなったりだ』と、その瞬間から思ったんですね。
そして、その翌日進路指導の先生に「早稲田か慶応そのどっちかに進学する」と話をしたら「お前ふざけたこと言ってるな、お前じゃ慶応なんか間違いなく受からない」と言う事を言われて「慶応受からないんだ〜」と言う事を思いながらも『そういう言い方をしたら、おれ早稲田なら受かる可能性があるのかも』と思って「じゃあ早稲田に行きます」と言ったら先生が「タイプ的には、慶応ではなくお前は早稲田タイプだ」と言う風に言ってくれたんですよ。
それを聞いた時に『あ、俺は早稲田に行けばいいんだ』と『俺には早稲田が合っているんだ』とその先生のその言葉のおかげで頭の中は早稲田一色になったんです。もし先生が「お前は慶応タイプだね」と言ったら僕は慶応にのめりこんでいたと思います(笑)
 〜プロ野球選手で大学を出て活躍されていると、スポーツ推薦で上がられたのではないかな?と周りは思われますよね
そういうトップアスリートには憧れてましたけど、残念なことにふざけた子供でしたので野球も中途半端でとてもじゃないけど全国レベルじゃないし、ある程度県内では評価されていたようですけれども全国には名前が轟いてないので通常の入試をしてことごとく跳ね返された、と。
 〜小宮山さんの最大の挑戦は早稲田で野球をするための受験と言う事ですね!
そうですね、特に2年目の年明けからですね。
 〜受験生もこの話を聞いて励みになりますね
どうなんでしょう?とにかく今から最後頑張れ、ということですねもがけ!ということです。


【早稲田に入ることが最大の挑戦と伺いましたが、その先のプロと言うのはあまり考えていらっしゃらなかったんですよね?】
実際にはふざけた高校生でしたから早稲田で野球をすること自体奇跡に近い、と、なおかつユニフォームを着れるようなレギュラーになれることも奇跡だと思っていたので、浪人中に『早稲田に入ってレギュラーになれたら死んでもいい』というぐらいのつもりでいたんです。
でも人間ですから欲深いので『あわよくばピッチャーとして神宮のマウンドに立ちたい』→『勝ちたい』→『出来れば早慶戦で』→『しかも完封なんてできたら良い、そこで人生が終わっても良い』というような勢いだったんです。
それが大学2年生の時に叶ってしまうんです、なのでホントにその後は“余生”なんです。
 〜それで目標がなくなってしまったりはしませんでしたか?
その時は早稲田のユニフォームを着ている限り『卒業まで頑張ろう』という思いで、もちろん卒業もしたいし野球部員としてしっかりやろうという思いではいたので。
2年の秋に目標を達成しましたが次から次に欲は湧いてきました、しかし最大の夢である“早慶戦での完封”を達成したのでその後の夢は叶おうが叶うまいが関係ない“余生”だから、と、そういう生活の仕方でしたね。
 〜その後プロ野球に入られましたが、現役中最後の夢ってなんでしたか?
当時、実際にドラフトかかる時点で僕は「アメリカに行きたい」と言ったんですよ、普通はだれも口にしないようなことなんですけど。
なので最終的にはアメリカでプレーをする、という夢は持っていましたね。
 〜では、日本のプロ野球を経験しなくても良かったかも、と言う思いは?
欲を言えばそういう状況になりたかったんですけど、ただ日本のプロの球団のスカウトの方々が早稲田のグラウンドまで足を運んで話をしながら「是非」と言ってくれたので、まず日本でプレーすることが望まれている事なんだ、という認識があったので、日本のチームに入団してと言う風に決めました。
 〜夢がどんどん実現していってますね?
基本的には失うものが何もないんですよ、それは“余生”だから、そういうところにつながると思いますよ。
早慶戦の完封以降は「何が起きてもいいや」と言う思いがあるのでそれが強さにつながったんだと思います。
守ることは一切しないので、攻めることしかしませんから。


【現在の趣味やプライベートはどのような感じでしょうか?】
趣味は他趣味ですね、他の野球選手同様ゴルフも好きですし、あと相当なことになってますねぼくがサッカーが好きだという事は。
これキッカケなんですが、高校の時、僕ら弱い学校だったんでグラウンドが共有だったんです。で、高校は硬式野球なので硬いボールを使うから相当危険なわけですよ。
なので打撃練習をする時にサッカー部とラグビー部に「ちょっとグラウンド貸してくれ」と頭を下げてお願いするんですよ。
それで「〜〜分間だけ使っていいよ」と言われてその時間内でカンカン打つんですけど、基本的に野球って打つのが楽しいスポーツなので時間がどんどん延長になるわけです、そうするとラグビー部とサッカー部から「お前らふざけるな」と言う話になった時に、サッカー部のキャプテンだった男が泣きながら「野球なんてやっている国は何カ国だ!」と言われまして「サッカーこそがワールドスポーツだ」と主張されたんです。
それを見たときに「サッカーってどんな風にすごいんだろう」となった時にちょうどワールドカップを見てその瞬間からサッカーの虜になりましたね。
僕、野球をやっているんですがサッカーこそがワールドスポーツだ!(笑)と言う風に僕も認めています。
僕その時、高校1年生くらいでジーコを知っていましたから、なのであのジーコが来日するという時に全然報道はされていなかったんですが一人心踊っていましたからね。
 〜今、野球とサッカーどっちが好きですか?
好き?見るのは断然サッカーが好きですね。ただ真剣にああだろうな、こうだろうな、と考えるのは野球の方ですね。
職業としてやっていたので細かいところまで考えて見る習慣がついちゃってますね、野球は。
それでもサッカーこそがワールドスポーツだと口にする球界関係者は多分僕以外にいないと思います、これはしょうがないですだってサッカーの方が凄いんだもん(笑)
 〜サッカーはご家族で見られているんですか?
基本的には僕しか見ないです、子供は野球をやっているので野球の方が楽しいのかなと思います。
でも最初はサッカーをやらせていたんですよ、でも親の影響なのか何なのか「野球がやりたいんだ」と言う事を口にしたので「じゃあやれ」と
 〜それは嬉しかったですか?
実際にはかわいそうだな、と言う思いしかないですね。
周りはどう考えても「プロ野球選手の子供だ」という見方をするので。
それが彼にとって相当な重荷になっている、とこっちは考えるので、ちょっとかわいそうかな、と思っていますね。


今週も引き続き小宮山悟さんにお話を伺います。

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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