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【村田亙・むらたわたる】ラグビー (2010年2月22日〜26日オンエア)


毎週様々なアスリートをゲストにお迎えしてお送りしているスポーツリアルトーク。
この番組ホームページでは放送では触れることができなかった部分も含め、
インタビューの内容をお伝えしていきます。
先週のゲストは現在7人制ラグビーの日本代表監督を務められている村田亙さんです。
ラグビーの日本人プロ第一号としても長く活躍した村田監督から、貴重なお話をたっぷり伺いました。



【村田亙・むらたわたる】ラグビー 
福岡県出身、1968年生まれ現在42歳
小学生の頃からラグビーをはじめ、
東福岡高校時代に全国大会に出場、専修大学ではリーグ優勝。
社会人・東芝府中では中心選手として日本選手権3連覇の偉業を達成。
1999年からは日本人初のプロラグビー選手として
フランス「アビロン・バイヨンヌ」で2シーズンプレー
2008年に現役を引退、7人制ラグビーの日本代表監督に就任。


村田監督オフィシャルブログ
http://murata-wataru.cocolog-nifty.com/




【村田監督とラグビーの出会いは?】
小学校一年生の頃で、実はそれまではピアノを習っていました。
 〜ピアノはどなたの影響で?
母親がやっていたという事もあって家にピアノがあったので無理やりやらされたようなところはあるんですけど、一年間で赤と黄色のバイエル2冊は終わりました。
実はスティングと言う曲は引けまして、第一小節だけなんですが出だしは完璧です。
 〜その後ラグビーへは?
僕は三兄弟の末っ子なのですが、ある日次男がラグビーボールを持って帰ってきたんです。
その時に「これ何なの?」とまずボールの形が変だったこととに興味を持って、そのボールを使うラグビー自体に興味もわいて僕もやりたいという事で一緒に連れっててもらうようになったんです。
今となっては強豪なんですが、その当時にしては珍しく地元にラグビースクールがありまして当時から結構スパルタでかなり鍛えられましたね。
とにかく僕は体が小さかったんですよ、小学校の時は6年生になっても130センチぐらいで、高校一年生までは背の順は一番前でしたね。
そんな僕が大きな選手をタックルすると周りがみんな沸いてくれるんです、それが快感で嬉しくて嬉しくてタックルばっかりしていましたね。

今年、母校の東福岡高校が2年ぶりに2回目の全国優勝することが出来たんですが、監督さんは僕らの時と同じ監督さんなんです。
監督の下、僕らが高校2年の時に全国大会の花園に初出場したんですけど、その監督さんは今でも当時のあだ名で「チョロ」って呼んでくるんです(笑)


【最大の挑戦は?】
やはり東芝で3連覇した後に日本で挑戦することがなくなったので、昔から抱いていた世界にチャレンジしたいという思いがあり最終的にフランスに行くことが出来たんですが、それが最大の挑戦です。
当時としては日本でもプロがなく、ましてや外国に渡る事なんて前例がない時代で私が初めてという事で、まず会社に対して「どう説明しようか?」という事が大変でしたね。
 〜どのように切り出されたのでしょうか?
まず「向こうに視察に行く」と言いながら実際にはセレクションを受けてみたりしましたね、フランスとイタリアと2つオファーをいただき2つとも行ってみてフランスの方に決めよう、と思いまして、帰ってきたときに当時の向井監督に「フランス行きます」と伝えたら「お前、会社はどうするんだよ!」と言われて「ちゃんと辞めていきます」と言ったんですが「家族はどうするんだ?」と言われたんです。当時ちょうど子供も一才だったので。
でも様々な不安もあったのですが夢が大きくてその夢が全て吹き消してくれました、ただ自分の中で決めた後にいろんな方々から「お前この先どうするんだ?」みたいにどんどん言われて「あれ?おれの選択は間違ってるのか?」とちょっと不安になった時期もありました。でも兄弟や家族が「大丈夫だから行こうよ」と言ってくれて後押ししてくれ最後は妻が「行きましょう」と言ってくれたので行くことができましたね。
僕だけじゃなく、家族の挑戦と言った感じですね。
 〜フランスで活躍できる自信はどのくらいあったのでしょうか?
自信はだいぶあったんですよ、ラグビーにはいろいろポジションがあって僕のポジションは9番と言う日本人に一番適した俊敏性を求められるポジションだったので。
そんな中最初の試合が千載一遇のチャンスだったのでしょうかね、キャプテンが怪我をして僕が代わりに出て僕が活躍することが出来たんです。
開始10分でトライをして、5分後にトライして、、10分後にアシストをしてあっという間に試合を決めてしまったようなデビュー戦だったんです。
キャプテンは怪我治った後に別のポジションに行きましたから。
 〜入ってすぐと言う事で言葉とかチームメートのコミュニケーションも大変だったのでしょうか?
有りましたね、行って3日目の試合でキャプテンが目の前で怪我して、10日目の試合でもう僕が出てるんですから。
チームメートの名前もわからないですし、フランス語もボンジュールとかしかわからずに行きましたからね。
 〜その中でも活躍できたのはなぜでしょうか?
僕がラグビーができたことでしょうね。ラグビーは世界共通なんでしょうね、おかげさまでほぼレギュラーで出ましたから、2シーズンで合計44試合に出場させていただきました。
4万人しかいない「バイヨンヌ」という町で日本人の家族が3家族だけで、その中で子供がいるのが家だけ、おかげでどこへ行っても「ワタ!ワタ!」と声をかけてもらえましたね
こっちに戻ってから3回ぐらいバイヨンヌへは行ったのですが、いまだに声はかけてもらえます。そういう暖かいところなのでまた行きたいですね。


【最大の壁・挫折は?】
ラグビーでいえば1995年にワールドカップが行われ出場したのですが、私はその時2度目の挑戦だったのですが予選でニュージーランド代表に17対145で負けた事です。
ま、あの挫折があったからこそバネのように伸びてここまで這いあがる事が出来たのかな、と思います。
 〜強いニュージーランドに負けた時は悔しさが強かったのでしょうか?
もう悔しいというより、ラグビーを辞めようと思いました。「こんなことではやっていられない」「こんなに世界とは差があるのか?」と。
ただ、ビデオとか見ていると僕のスピードは通用しているなと言う感じで、いいところを抜粋していって「俺は絶対負けていなかった」と思うようにしました。
 〜そこから自分を奮い立たせてくれたものはなんだと思いますか?
やはりもう一度ラグビーに立ち返って、ラグビーの借りはラグビーでしか返せないのでね。
その時にたまたまマレーシアでコブラテンズという10人制の試合がありまして、ニュージーランド代表ではなくマウリ代表というセカンドチームだったのですが10分ハーフの試合で勝つ事が出来たんです。
それで「15人制では負けても10人制では勝ったぞ!」と言う事でそこで僕は一気にトラウマを消し去りましたね。
 〜その時、世界を相手に戦うにはどうしたことをしていけばいいと思いましたか?
日本人の特性である俊敏性だったりすばしっこさだったり、ここは僕自身が体感していたので通用した部分ではありますよね。
ただ体系体格というのは日本人もだいぶ大きくなってきたので、そこで動ける選手があらわれれば日本人も十分に対抗できると思います。
 〜そんな大きな体の選手たちの中でご自身の強さは改めて何だったと思われますか?
やはりフランスで学んだものが大きいですね。それまでもラグビー一辺倒でいた自分がいたわけですけども、フランスへ行く前ニュージーランドに1か月留学させてもらったんですけど、2つの国ともラグビーが一番ではなかったんですね、家族が一番でその次がラグビーなんです。
特にフランスでは毎週のように試合があったので、試合の3日4日前から気合を入れていたらもたないんですよ。
なので家族との時間を大事にして遊ぶ時はしっかり遊んで、試合の当日だけ試合に集中して臨むという形で、日本に帰ってもうまく遊びを取り入れられる事を続けることによってさらに伸びたのかな、と思います。


【村田監督にとってのマイチャレンジソングは?】
やはり、私自身ラグビーワールドカップに3回出場したのですが、1995年の大会の時に流れていたWorld In Unionです。
ワールドカップのテーマソングでこれが流れてくると燃えてきますし、当時を思い出しますね。
実はこの曲を使って、僕のオリジナルの好プレー集を作ったんですよ、試合前にそれを見て鼓舞していましたね。
このテープを見て頭に焼き付けて「こんなプレーをしよう!」と思っていると実際にそういう場面が出てくるんですよ、いまでこそイメージトレーニングと言うのは主流になっているんですが僕は昔から自分マニアなところがあったので、自分のいいところを常にポジティブに考えてそれを実行すると言う事をやっていましたね。
そのテープが「こんな選手がいる」とヨーロッパに渡りましてオファーが来たんです。
 〜そのファインプレー集はいつ作ろうと思ったんでしょうか?
せっかくだから今のいいプレーを残しておこうと思ったことと、海外に挑戦したいという気持ちも持っていたので「どうやってアプローチしたらいいか?」と考えたときに自分のテープを送ろうという事になったんです。

 〜プライベートもお伺いしたいのですが、サッカーのゴン中山選手とは同い年であり同じ磐田をホームとするジュビロに所属していたので仲が非常に良いそうですね?
はい、今でもメールは交換しますし、あいつは引退せずに札幌に行ってしまいましたけど、その時も移籍前に僕のところにメールをくれて「明日たぶん発表があると思うけど、現役を続ける」と。
僕が引退した時は彼が駆け付けてくれて、花束贈呈とかジャージ交換をしたんですけど、僕はセブンズの大会で海外に行っていましてそちらには行けなくて「俺はお前の挑戦を支持する」とすぐにメールを返信しました。
やっぱり同級生と言う事もあり、お互い頑張ろうとやっていたらいつのまにか40になってましたからね。僕はこのときもう切り替えだと思いましたけど彼はまだ現役を続けるという挑戦をしているわけですから、それは後押しをしたいですよね。


【最後に今後の目標をお願いします】
今、7人制ラグビーのに日本代表監督として携わっているので、今回その7人制ラグビーが新たにオリンピックに正式採用されたので、正式に開催される6年後のリオデジャネイロオリンピックを目指しています。
 〜監督へは現役を引退してすぐになられたんですよね?
引退してしばらくゆっくりしたいな〜フランスでも行けるかなーと思っていたところに、すぐにラグビー協会から「監督をやってくれ」と言う事だったのでホントにびっくりしましたよね。
 〜7人制ラグビーは全く違うスポーツという面もあるんですよね?
7人制は日本ではあまりやっていないのですが、その名のとおり7人対7人で行われるのですがグラウンドは一緒なんですよ。
でも人数は15人制の半分以下なんです、試合時間も7分ハーフで1分休憩をはさんで15分と短いのですが、その15分は走りっぱなしの走り合いになるので相当きついです。しかもそれを1日に3試合とか行うんですよ。
 〜村田監督の思う7人制の魅力とは何でしょうか?
7人制は万能選手の戦いなんです、それが国代表同士の戦いになると本当にスピーディーですし、動きはありますし、ボールはつながりますし、目まぐるしく攻守は交代しますので見ていて本当に面白いです。
それが15分で1試合終わって次のチームが出てきますので1日に20試合近くみられるんです。
 〜7人制の選手と言うのは特化して7人制の選手を育てていくものなんですか?
それがこれからの課題なんですが、結局今7人制で活動している選手も15人制の選手でもあるので各所属企業や大学に頭を下げながら海外に行っているので、これをうまくしていかないといけないんです。
国内のシーズン中にも7人制の国際大会などはありますので「なかなかトップ選手が呼べない」という事態もある訳なんです。
 〜最後に7人制ラグビーの監督としての抱負をお願いします?
これは大きく、6年後のリオデジャネイロでメダルを目指して戦っていきたいと思いますので、応援よろしくお願いします。

インタビューを終えて
帰りに、とっても可愛いお嬢さん達の写真を見せてくれた村田監督。

留学したニュージーランドとフランスでは『家族が一番、ラグビーが二番』ということを学んだとおっしゃっていましたが、監督業から離れると、家族想いの良きお父さんなんでしょうね!!

パイオニアとしてラグビー界を引っ張ってきた村田監督が、7人制ラグビーでもきっと挑戦者として周りをあっと言わせてくれるのではないでしょうか。次の次ですが2016年のオリンピックが楽しみです!!
(政井マヤ)


政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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