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【小倉隆史・おぐらたかふみ】サッカー元日本代表(2010年4月5日〜4月9日オンエア)


毎週様々なアスリートをゲストにお迎えしてお送りしているスポーツリアルトーク。
この番組ホームページでは放送では触れることができなかった部分も含め、
インタビューの内容をお伝えしていきます。
先週のゲストはサッカー元日本代表の小倉隆史さんです。
現役時代はレフティモンスターの愛称でその名を轟かせた小倉さんに貴重なお話をたくさんお聞きいたしました。


【小倉隆史・おぐらたかふみ】サッカー元日本代表
三重県出身、1973年生まれ現在36歳。
四日市中央工業から、1992年名古屋グランパスエイトに入団。
オランダ留学を経て、1994年日本代表に選出。
1996年、右足後十字靭帯断裂という大けがに見舞われ選手生命の危機に立たされるも、奇跡的に復活。
その後ジェフ、コンサドーレ、ヴェルディ、ヴァンフォーレとチームを渡り歩き、2006年に現役を引退。
現在はサッカー解説者として活躍中。






【小倉隆史さんとサッカーとの出会いは?】
出会ったきっかけと言うのがひょんなことからという感じで、僕には4つ上の兄がいまして良く兄とキャッチボールをしていたんですよ。
そんなに裕福な家庭ではなかったのですが、僕の父親は木のバットを削ってくれたり新聞の間にある広告をテープでぐるぐるに丸めてそれを投げて打つような事をして野球を教えてくれるスパルタ的な父親だったんです。
しかし、小学校の野球は4年生からしかできなかったんですよ、それで小学校に入った時に近所の子が「サッカーやる」と言っていて、父親からも「野球は足腰鍛えるのが大事だから4年生まではサッカーをやってみろ」と言われて「じゃあやる」って始めてみたら、手前味噌でしょうけど上手かったんでしょうね〜(笑)
3年生のころには6年生のチームに入って試合をしていたりしていたんですよ。
 〜すぐにサッカーは好きになったのでしょうか?
そうですねすぐに好きになりました、小さい頃はドリブルで人を抜いていく事がすごい好きだったんですよ。人にボールを渡さないような典型的なガキ大将タイプだったんですけど。
 〜まるでジャイアンみたいな(笑)
やめてくださいよ、一時言われた事があるんですよ(笑)オリンピックチームに入った時に「オレがオレが」で通したら「ジャイアン」と呼ばれた事があったんですから。
 〜そんなガキ大将の当時、憧れていた選手は誰だったんでしょうか?
当時はやはりマラドーナ時代だったので、マラドーナにあこがれる奴も多かったのですけど、当時は生意気だったので「そんな存在にオレがなる!」と本気で思ってました。
 〜でも、実際にプロになられたわけですからね。プロになりたいとはいつ頃から思い始めたのでしょうか?
僕らの時代は三菱ダイヤモンドサッカーという30分番組がありまして、あとキャプテン翼とホントに同い年ぐらいだったんです。
翼君はブラジルに行くし、若林源三君はドイツに行くという事でしたし、ダイヤモンドサッカーを見ていたので「プロは海外でやるものだ」と思っていたんで、小学校6年生の卒業文集には「プロサッカー選手になりたい」と書いていたんですけど、そのころからずっと海外にあこがれていました。


【小倉隆史さんにとって最大の努力は?】
いろいろ小さいころからやっていて、小学生の頃とか無茶苦茶な事を考えるんです。
例えば、真っ暗で電気のないところで感覚だけでリフティングが出来るんじゃないかと思って、足に目があるようにみたいな感じで、とにかく上手くなりたいと思っていろんな事をやっていましたね。
あと一番努力したのはやはり高校の時ですかね、高校の時もいろいろやりましたね。
体力的な事で言えば、僕は電車通学をしていたのですが行き帰りの電車トータル30分くらいですがずーっとカカトを上げていたり、駅について自分の家に帰る時もつま先立ちで帰ったり。
 〜高校はサッカーの名門四日市中央工業ですよね?
ホントは僕頭が良かったんですよ中学では4日5しか取ってなかったので推薦という形で、進学校へ行く予定だったんです。
でもやはりサッカーがしたくて、三重県では絶対に選手権に行くような高校で、高校サッカー選手権というのは憧れの舞台だったのでそこへ行くと決めて選んだんです。
それでも、2年生の時は一試合目で負けたんですよしかも1−5でボロ負け、それで「こんなに悔しい思いをするのなら・・・!」と高校3年生の時は一年間はホントに練習しましたね。
一通りの練習が終わってから、左の斜め45度から逆サイドへ向けてのシュートを一日何本打ったかわからないぐらい打ちました、1日100とかじゃきかないぐらい何本も毎日毎日雨の日も、ほんとに悔しかったんで。
言い訳できるくらいやって負けたんだったらしょうがない、ただそこまでやったのか?と言われるとやっていなかったので、じゃあやろうとやったんです。
 〜そしてその成果もあり高校3年生でのサッカー選手権は見事に優勝を飾りました!生活もガラッと変わったのではないでしょうか?
はい、おかげさまで「キャー」と言われたこともありましたからね僕も、ただ『小倉隆史』という名前についていけませんでしたね。
普段僕は僕だったんですけど、周りからの『小倉隆史』という存在に対してのギャップに「何だこれ?」と言うのは覚えていますね、普段学校に行く通学の電車にのったら大騒ぎになるんです、それに普段街を歩いていても指をさされたり、僕グラウンドの上で目立ちたいタイプだったのでそれは苦手でしたね。ほっといてくれよと思う時期もありました。

【小倉隆史さんにとって一番の壁・挫折は?】
オランダに留学した後、アトランタオリンピックを目指して28年ぶりにオリンピックに出場することになったのですが、その予選で副キャプテンとして前園や中田英なんかと頑張ったわけなんですが、その最終予選の直前でまさかあんな怪我あるなんてという事で、ジャンプした後着地した時に僕の感覚では膝がズルッと前に滑ってきた感じだったんですよね。
ただ人間あまりに酷くショックが過ぎると、その時の事を場面場面で断片的にしか覚えていないんですよね、怪我をしてワーて暴れててそうだったんだという感じで、あとはホテルの部屋に帰ってから泣いたのは覚えていますね。
 〜それはオリンピックには無理だという感じでしょうか?
絶対に無理だと思いました、それに最終予選の直前だったので「オリンピックには僕が連れていく」と思っていましたのでそれもすごくショックでしたね。
アスリートの方は良くあるんですけど、体がキレて調子が良い時の方が動けて怪我をするというのはよくあるんです、あの時はぬかるんだピッチだったんですけど、僕はコンディションばっちりで体はキレキレで跳躍力もよかったんです、それでジャンプボールを競り合った時遅れてDFがポンと当たってちょっとバランス崩したんですよそれで着地で変な風になったというのがあるんですよね。
でもこの挫折は大きなポイントになりましたけどこの後もいろいろ続きましたからね、怪我して日本で手術したら結果的に失敗で、もう一回オランダで手術を受けた時にはもうボロボロになっていて軟骨まで痛めちゃっていて、僕の膝には4回メスが入っていますからね。
 〜最初のアトランタオリンピック直前の怪我からはどうやって立ち直ったのでしょうか?
そのあとずっとボーっとしていたんですが、残った前園や城やヒデだったりがオリンピックの出場権を取ってくれた事は前向きになれましたし、無理だとは思いましたけど本戦に間に合わせたいという気にもなりました、とにかくもう一度サッカーに戻りたいという一心でしたね。
でもリハビリもずーっと右肩上がりというわけにはいかなくて、良くなったりまた痛くなって手術したり、まぁ僕を鍛えてくれましたよね。
リハビリ施設のホテルって夜ホントに人が誰もいなくなって、それこそ鹿とかウサギがあらわれるくらいで、そうすると自分と会話するしかないのでオランダでは自問自答の日々でしたね。でもあれは貴重な経験でしたね。
 〜オリンピックの戦いはご覧になりましたか?
もちろん見ました、ブラジルに勝ったのはスゴイってホントに思いました「やりやがったこいつら、俺もここにいたかったチキショー!」って思いましたね、でも純粋に応援をしていたので「やった!」というのが大きかったですね。


【小倉隆史さんにとっての思い出の一曲・マイメモリーソングは?】
K−Ci&JoJoAll My Lifeです。この曲がちょうど海外でずーっとリハビリしていた時に流れていた曲で物凄くメロディなどが入ってきた曲だったんですよね。
こんな僕ですが、珍しくホロリした感じでMTVってあるじゃないですかちょうど良く流れていたんですよ、CDもすぐに買いましたからね。それで今でもこの曲が町で流れてると、ハッと耳が行ってしまいます。
 〜引退してから現役時代とだいぶ生活も変わったと思うんですけど、新しく始めた趣味などありますか?
実は今、その趣味がほしいんですよね。でも今だからこそやっとプレッシャーを感じないところでやる草サッカーを週に1回2回はやっています、面白いですね、やっぱ。
 〜やはり違いますか
ぜんぜん違いますね、プロでやるとそこにはプロフェッショナルの責任が入ってきてプレッシャーもきついんですけど、ただ遊びでやっているので本当に走らないですね、今(笑)楽してやろう、楽してやろう、と
 〜どんなメンバーでやられているのでしょうか?
お笑い芸人さんが来てくれたり、元Jリーガーの方だったり、ミスターチルドレンの桜井さんだったり森山直太郎くんだったりミュージシャンの方とも一緒にやっています。
でもそこではトレーニング代わりなのかもしれないのですがミュージシャンの方がなぜかよく走るので「小倉君もっと走ってディフェンスしてよ」って怒られたりしています(笑)


【小倉隆史さんの今後の大きな目標は?】
僕、挫折の時に話したあの怪我ですが、最初の怪我からリハビリにトータル3年かかったので現役では何も手に入れてないんですよね。
天皇杯は優勝しましたがリーグ戦優勝した事ないですし、個人タイトルもノミネートだけですし、代表キャップ数も全然少ないので「じゃあ何か?」となった時に「監督して手に入れてしまえ!」と、目標としてはJリーグの監督、、、そしていくなれば、小倉JAPANを目指して目標は『3億円監督』でお願いします!!
夢は本当に大きく、今しか言えませんから。
 〜そして昨年にはA級ライセンスも取られたんですよね?
そうなんです、サッカーというのはライセンスを取らないとJリーグの監督はできないのでCから始まってB、A、Sとあって最高がSなんですがその手前のAまで来たので、後はSをとったら晴れてJリーグの監督になれる!、、、「資格」がもらえるという事です。
 〜小倉さん自身が一番影響を受けられた監督は誰でしょうか?
確実に、名古屋時代にお世話になった、今アーセナルを率いていられるアーセン・ベンゲル監督です。
彼が来てチームがガラッと変わりましたし、あの人の影響は本当に大きいですね
 〜実際に名監督として名前はよく知られていますが、どんなところが違うなと思わされるのでしょうか?
練習で言うと90分の中にきっちり詰め込んでいるので、練習と練習の間の休みが全くなく無駄がなくきっちり90分で終わるんです、下準備からスタッフの連携からすべて完ぺきにできているんです。
さらに選手の側からすると「もっとしたい」となるんです、それはすごくいい事になんですよね。
絶対目指したいところなので、いつかは勉強しに行きたいなと思ってるんですよね。
 〜最後に何かプライベートの目標はありますか?
そうですね、なんとか蕎麦を打てるようになりたいですね(笑)蕎麦セットもかってあるので(笑)
 〜それはまた意外ですね、料理はお得意なんですか?
甲府時代には、朝昼晩自炊をしていたので料理も得意なんですよ、とにかく極めてみたいです(笑)

政井マヤ
パーソナリティ:
政井マヤ
メキシコ生まれの元フジテレビアナウンサー。フジテレビ時代には、スーパーニュース、ワッツ!?ニッポンなど情報番組を主に担当。2007年3月に俳優の前川泰之さんと 結婚、女児を出産。2008年からスポーツリアルトークのパーソナリティを務めている。
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